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D05  キャンバス

 柔らかな夕日が美咲のほほに優しく降り注ぐ。
 窓際で画筆を動かすその横顔は、目の前にあるそれを愛でるような柔らかな表情をしている。
 美咲の前にある白いキャンバスには、日々変化する美咲の気持ちがそのままさまざまな色となり重なり合う。
 落ち込んだ日は深い海の底のようなダークブルー。嬉しいことがあった日はまるで桜の花びらのような淡いピンク。
 美咲はその時の気持ちをそのまま目の前のキャンバスにのせていく。
 だから、キャンバスを見れば今美咲がどんな気持ちなのかがわかるのだ。
 そこには美咲のすべてが描かれているのだから。
「ハルちゃん。どうしたのぼうっとして」
 放課後、いつものように美術室に来ていたハルは、美咲のその言葉にふと我に帰る。
「え、あ。ごめんごめん。なんか考え事してた」
「ふふ」
 ハルが慌ててそう答えると、美咲は柔らかく笑ってキャンバスに目を戻す。
 画筆を手にキャンバスに向かうその横顔は、まるで聖母マリアのように柔らかで優しくて、綺麗だ。
 そう。ハルにとって美咲はまさにマリア。
 美しくて優しくて、誰にも汚されない大切な人。
「今日はまだ来ないね。ミツルくん」
 優しい声音で呼ばれたその名前に、ハルはうっとりとした気持ちがどす黒い感情に変わることをはっきりと感じる。
「あんな奴、毎日ここに来る必要なんてないんだよ。なんで毎日来るんだろ。ほんっと邪魔」
「ハルちゃんったら。邪魔だなんてミツルくんがかわいそうよ。ミツルくんはハルちゃんをわざわざ迎えに来てくれているのに」
「ちがうの。あいつは美咲と会いたくてわざわざ毎日部活が終わったらここに顔を出すのよ。ほんっと動機が不純なんだから」
 今まで何度も言っていたその言葉を、今日もはっきりと口にする。
 ミツルは私の幼なじみだ。
サッカー部の練習が終わると家が近所だからと言いながらハルを迎えにここにやってくる。
 ハルのことを迎えに来てやったんだなんていいながら、いつだってミツルはハルとくだらないことをしゃべっている間も美咲のことを見ている。
 うっとりと、惚けた顔で。
 あの目は明らかに恋する者の目だ。ミツルは絶対に美咲のことが好きなんだ。
 なぜなら、美咲は綺麗だから。
 綺麗だし、優しいし、存在そのものがもう奇跡のような女の子だから。
 ハルは美咲のことをそっと盗み見しながら心の中で何度も何度も思っていたことをもう一度強く思う。
 ミツルは絶対に美咲のことが好きだ。
「ハルちゃんったら、またそんなこと言って」
 ハルの言葉にまったく気付かない素振りを見せながら、美咲はくすくすと笑って新しい絵の具をパレットに絞り出す。
 きちんと切りそろえられて磨かれた美しい爪。細い指先。
 チューブを絞り出すそのしぐさすらも優雅で完成されている。
 ハルは、自分が男だったらよかったのにと思う。
 それは、何度でも願うたった一つの祈り。
 男であれば。それなら自分が一生美咲を守れる。
 悪い虫がつかないように。
 この美しくて、でもか弱い花が枯れてしまわないように。
「ハルちゃん。空って何色だと思う?」
 パレットの上で色を混ぜていた美咲は、にっこりと微笑みながらハルに質問を投げかける。
 え? 空??
「空って……普通青色じゃないの?」
「ふふ。そうよね。でも、この中の空は青色じゃない気がするんだよなぁ。でも夕焼けの赤って感じでもないし」
 美咲のその言葉に、美咲の横から今彼女が書いている絵を覗きこむ。
 そこには、懐かしい校舎が描かれている。
 ハルも見たことがあるその建物は。
「あ、これって私たちの中学校じゃん」
 懐かしい。懐かしい校舎。
 美咲とハルと、先ほど話題にでていたミツルはみんな同じこの中学校に通っていた。
 中学時代からかわいくて美しかった美咲。
 勉強も運動もできるのに、そんなことなんてどうでもいいっていう顔でハルの横で微笑んでくれていた。
 ハルとミツルがケンカするたびに、ハルの味方になってくれる美咲。
 でも、明らかにハルが間違っているときは、やんわりとそのことを教えてくれた美咲。
 ハルは何度でも思う。
 私はきっとあの頃から美咲のことが好きだったんだ。
 高校生になって突然色気づいて美咲に優しくしだしたミツルより。
 中学時代から遠巻きに美咲のことを見ていたたくさんの男子より。
 きっと。きっと私のほうが美咲のことが好き。
 私が一番美咲をわかっている。
 だって、私と美咲は同じ女だから。
 あんなガサツで乱暴でいい加減な男子たちになんて美咲のことがわかるわけない。
「懐かしいよね。久しぶりに描いてみたくなったんだ」
 中学時代に想いを飛ばしていたハルは、美咲のその言葉に我に返る。
「ほんと、懐かしいねー。でも、なんでこの空が青色じゃだめなの?」
 キャンバスの中には薄く透き通った夏の空のように綺麗な水色と青の間の色が描かれていて、その中にハルたちの懐かしい中学校が少しだけぼやかした感じのパステル調で優しく描かれている。
 それは、優しくて穏やかな世界。
 どこまでも現実に忠実な、ありふれた景色。
 美咲は、時々わけのわからない抽象画を描くことがあるので、こういうわかりやすい風景画は珍しい。
 でも、とても美咲に似合っている。
 ハルが思い描く美咲の内面そのものの、優しい、やさしいせかい。
「うーん。なんか、この空の青色が気に入らなくて、ね」
「ふぅん」
 美咲のその言葉に、ハルは少しがっかりする。
 芸大を目指している美咲は、時々ハルにはわからない基準みたいなもので世の中を見ている気がする。
 中学校の背景なら絶対に青い空がいいのに。
 それでは納得しない美咲に、なんだかハルはもやもやしたものを感じた。
「ハルじろぉっ。かえっぞっ」
 なんとなく変な空気になったなぁ、ってハルが思った瞬間、美術室の扉が勢いよく開かれる。
 その扉の向こうには、先ほど噂になっていた一人の男の子がスポーツバックを背負って息を切らして立っている。
「何よミツル。ってかその呼び方やめてって言ってるでしょぉっ」
「あんだよー。お前が自分の名前嫌いだって言うから俺が名付けてやったんじゃねぇかよ」
「二郎ってのが気に入らないのよっ。あたしはあんたの次男坊じゃないんだからっ」
「そっちかよ。フツーそこは『男じゃないんだからねっ』って怒るとこだろーが」
「うるさいわねーっ! 美咲が今集中モードなんだから、余計なこと言うんじゃないわよっ」
「じゃぁお前が黙れよ。ってかもうちょい女らしくしろよなぁ。これだからお前は可愛くねぇんだよ」
「なによっ。あんたに言われる筋合いないわよっ。可愛くなくて結構!」
「ハルちゃんは十分可愛いわよ」
 ミツルが登場するとともに始まったハルとミツルの言い合いに、美咲がおっとりとした声で、でもはっきりと間に入り込む。
 その声に、それまでハルしか見ていなかったミツルが、思い出したように窓際でキャンバスに向かっている美咲を見て慌てて笑顔を作った。
「美咲ちゃん、こいつにいちいちそういうの必要ねぇよ」
「そおよ。私別に自分がかわいいとか思ってないし、そんなこと言われたぐらいでなんとも思わないから別に大丈夫だよ?」
「ハルちゃんったら馬鹿ね。女の子が自分で可愛くないなんて言っちゃだめよ」
 美咲のその言葉にハルはふと苛立ちを覚える。
 美咲に比べてハルは可愛くない。
 そんなことは百も承知だ。
 むしろ、美咲より可愛くないことがハルにとっては絶対条件なのだから。
 美咲より目立ってはいけない。美咲より可愛くてはいけない。
 美咲の隣に並ぶ自分が美咲より優れていてはいけないのだ。
 なぜなら、美咲は完璧だから。
 美咲こそがハルにとって最高でパーフェクトだから。
 その美咲の美を、素晴らしさを揺るがすものが周りにあることは、ハルが許さない。
 もしも美咲の完璧を揺るがす何かがあるなら、それはハルが排除する。

 私の美咲を汚すものは、たとえそれが『私』でも許せないのだ。

「いいの。もぉ美咲は私とミツルのことなんて気にせず続きを描いて。ほら、ミツルはさっさとこっから出て行きなさいよ。美咲の邪魔でしょ?」
「それ言うならハルだって同じだろ? ってか、俺一応お前を迎えに来たんだけど」
「ハルって呼ばないでって言ってるじゃない。それに迎えに来てって頼んだことないわよ」
「あぁ? お前なぁ。ちっとは素直に……じゃねぇな。自分のこと気付けよ」
「はぁ? あんたこそ何言ってんの?」
 また始まりそうになっているハルとミツルの口論に、美咲は今度は口をはさむことなく新たな色をキャンバスにのせ始める。
 ぺたぺた。
 真っ青な空が、ゆったりと新しい色に塗り替えられていく。
 ハルの気持ちを受けながら。
 ミツルの想いを感じながら。
 歪んだ関係。歪んだ愛情。
 ハルは、どこまでも完璧で、美しい美咲でいて欲しいと願う。
 学年で一番可愛く綺麗な美咲の隣にいることが、ハルにとって何よりも大切なのことなのだ。
 でも。
 美咲が望むことはそんなことではない。
 ぺたり。
 穏やかな風景に囲まれていた校舎が、その様子を変える。
 ペタリ。
 色は不思議だ。
 少し別の色を混ぜるだけで、驚くほど新鮮な深みを出したりする。
 その時の気分により、同じように混ぜても全く違う色が出来上がったりする。
 ぺたり。
 キャンバスは正直だ。
 今の美咲の気持ちを、驚くほどはっきりとあらわしてくれる。
「あー、ほんっとにうざかったぁ」
 美咲がその声に顔をあげると、目の前にはハルが一人だけいる。
「あれ、ミツルくんは?」
「先に帰ったよ。もぉマジでうざいし。なんで毎日来るんだろ、あいつ」
「ハルちゃんのことが心配だからに決まってるじゃない」
 毎日同じようにハルにうるさくかみつかれても、ミツルは懲りずにここに来る。
 それは、おそらくハルと美咲のことを思っての行動なのだろう。
 あまりに美咲に執着するハル。
 そのハルを愛おしそうに見つめる美咲。
 友達、というには余りにも濃厚すぎるこの二人の関係に、ミツルは本能で気が付いている。
「なんで私が心配でここに来るの? 美咲って時々わけわかんないこと言うよね」
 きょとん、とした顔でそう言って、ハルはくしゃっと笑う。
 美咲はその笑顔を見て微笑みながらキャンバスに色をのせる。
 それは、まるで海の底のような青。もう漆黒といってもおかしくないぐらい、暗い青。
 まるで、シーラカンスが住んでいると思わせる深海の色だ。
「ねぇ美咲、今日は帰りに駅前でお茶しない?」
「そおね」
 ハルのその言葉におっとりと笑顔で返しながら、美咲は画筆を走らせる。
 ペタリペタリ。
 そこに広がるのは、どこまでも暗く沈んだ色調。
 二人の未来を案じているかのような、混沌とした青。
「二人でお茶、楽しみね」
 ハルの提案に、美咲は心の底からうっとりとした極上の笑顔を見せる。
 その笑顔をみて、ハルも嬉しそうに笑う。

 キャンバスに描かれた中学校の頭上には、雲ひとつない漆黒の闇が広がっていた。


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