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C12  色とりどりの世界

「母さん、見て見て!」
 少年が誇らしげに自ら描いた絵を差し出すと、失色症の母親はいつも少し困ったように笑った。
「グレンは絵が上手ね。とってもきれい」
 美しい金髪に鮮やかなスカイブルーの目を持つ母親の姿を描いたグレンの絵は確かに、十歳の子供が描いたものとは思えないほどに完成されている。
 誕生日に買ってもらった筆と絵の具は、少年の宝物だ。限られた色を巧みに混ぜ合わせて、紙一面に色とりどりの世界を描く。
「おれ、絵描きになるんだ! この色、見える?」
 高らかに宣言する息子を、母親は眩しそうに見つめた後、悲しみとともに目を伏せた。
 そして首を横に振る。
 グレンをしょげさせたいわけではない。
 しかし、彼女の目には見えないのだ。グレンの描く色が。
「空だよ。太陽がしずむときの色」
 ピンクから群青へのグラデーションを指差し、グレンは説明する。見えなくとも、賢明に伝えようとする。
「ここはピンクなのね。うん、上のほうが群青で……そう」
 母親はピンクという色を知ってはいたが、見たことはなかった。何度も頷きながら想像する。息子の描いた絵の色を。
「母さんはいつになったら見れるようになるの? イノーラおじさんはこの間、赤が見えるようになったって言ってたよ」
 頑張ってたくさんの色を使って描いたのに、見てもらえない寂しさに、グレンはつい責めるような口調になってしまう。
 失色症は個人差こそあれ、今や誰もが煩っている病気だ。
 人にはそれぞれ、生まれつき見えない色がある。
 ものそのものが見えないわけではない。姿形は見えていても、色だけが認識できないのだ。
 見えない色はすべて、灰色に変換されてしまう。失色率が高ければ高いほど、世界は灰色に染まるのだ。
「おじさんはきっと、彩色香(さいしょくこう)を買ったのね」
 母親はグレンの頭を撫でながら、小さく呟いた。
 息子の描く絵を――きちんと彩色された状態の絵を、母親が見たくないわけがない。
 彩色香を使えば、見える色を増やすことができる。
 けれども、彩色香はとても高価だ。とてもではないが、グレンの両親が簡単に手に入れられるような代物ではない。色を増やせるのは、一部の裕福層だけである。
 そして、彩色香を作れることができるのは、色を取り出す特別な技術を身につけた彩師(さいし)のみ。
 人々の平均失色率は今や四十五パーセントと高く、しかもこの数値は年々上がっている。当然、彩色香を求める人も増えた。
 グレンの母親は七十パーセント、父親は三十五パーセントと診断されている。
 多くの人が色を失っているこの世界で、たくさんの色を描く絵をきちんと評価してもらうことがどれほど難しいことか、幼いグレンはまだ気づいてはいなかった。
 ただ、母親に絵を見てもらいたい。色を見てもらいたい。
 少年の無垢な願いはしかし、皮肉な事件を引き起こすことになる。


 ある日のことグレンは、一人で町に出掛け、ある店を訪ねた。
 この辺りでは唯一の彩師の店である。
 母親の見える色を増やすために、彩色香が必要だ。
 彩色香は高い。お小遣いで買えるものではないことくらい、わかっている。
 けれども、一つだけ方法があることを、グレンは知っていた。
 近所に住む高慢ちきなイノーラおじさんが以前、聞きもしないのに教えてくれたことがある。
 両親はグレンの誕生日に絵の具を買ってやるために、自分たちの“色”を売ってお金にしたのだと。
 イノーラは「貧乏人はご苦労なことだ」と同情心など欠片もない台詞を、ついでのように吐き捨てた。
 色を売ればお金になる。彩師は人から買った色をもとに、彩色香を作るのだ。
 グレンは店へと駆け込んだ。
「おれの色を買ってくれ!」
 色とりどりの小瓶がびっしりと並ぶガラスケースを背に、接客中の彩師は何事かと顔を上げ、少年を一瞥。
「帰れ」
 にべもなく告げた。
「なんでだよっ。買ってくれよ、おれの色! そんで彩色香を売ってくれよ」
「どこの小汚い小僧かと思ったら、ハイラムのとこのガキか」
 グレンにとっては間の悪いことに、客はイノーラおじさんだった。
「貧乏人にはもったいねえ。帰れ帰れ」
「やだ! 母さんの色を増やすんだ」
「食べてくので精一杯なくせに何言ってやがる」
「イノーラさん、こちらがアップル・グリーンとマシコットです」
 馬鹿にしたように笑うイノーラに、愛想のない彩師は親指ほどの大きさの小瓶を二つ手渡した。極めて事務的に。
「おう、次はコバルト・ブルーを用意しといてくれよ」
 イノーラは彩色香を手に入れ満足げに鼻を鳴らす。そのまま、戸口に立っていたグレンを押し退け、大きな腹を揺すりながら店を立ち去った。
「お前も帰れ。子供からは色を買わない主義だ」
「金がいるんだよ、だから……」
「彩色香を買うための金か? 母親のために、とは泣かせる話だが、お前は色を失う怖さを知らないだろう。一度失った色は二度と取り戻せないぞ」
「でもっ」
「帰りなさい」
 これ以上はねばっても無駄だと思わせる強い口調で、彩師は告げた。


 彩師は色を買ってくれない。お金を用意できなければ、彩色香を買えない。このままではグレンの絵は、母親にさえ正しく理解されないままだ。
 うなだれて帰路につくグレンの視界に、のっそりと前を歩くイノーラの後ろ姿が見えた。手には、先ほど買ったばかりの彩色香の小瓶が入った袋を提げている。
 彩色香さえあれば――。
 急に走り出したグレンは、気がつけばイノーラの巨体に勢いよく体当たりしていた。
 よろけた隙に、その手から袋を奪う。
「何しやがる! この、ガキ……!」
 立ち上がって追いかけてくる前に、グレンは逃げた。全力で。
 早く、早く家に帰るんだ。
 母親に絵を見てほしい。ただ、それだけだったのだ。


「母さん! 目を閉じて?」
 家に帰るなり、グレンは台所で夕飯の準備をしていた母親を掴まえ、早く早くと急かす。
 不思議そうな顔をしながらも瞼を閉じた母親の鼻先で、グレンは彩色香の小瓶の蓋を開けた。中の液体は見る間に気化し、うっすらと色づいた煙となって鼻腔をくすぐる。
「あら、いい匂い。なにかしら……」
 目を開けた母親は、見てしまう。
 これまで見えることのなかったアップル・グリーン色の小瓶と、それを握りしめる息子の姿を。
「グレン……どうやってそれを……」
 彩色香を買うお金など与えた覚えはない。グレンのばつの悪そうな表情に、母親が気づかぬわけがなかった。
 問いただそうとしたその時だ。
 玄関を叩く音がして、返事を待たずに扉は開かれる。
「この盗人め! 俺の彩色香を返しやがれ!」
「イノーラさん……!?」
 家の中に上がり込み、グレンを恫喝する男と、それに怯える息子を見て、母親はなんとなく状況を察した。
 グレンの持つ彩色香の瓶の蓋が開いているのを見たイノーラは、すでに一本分の色が使われてしまったことに気づいてますます怒りに顔を赤くする。
「てめぇ……俺の色を使いやがって!」
「待って、待ってください。イノーラさん」
 グレンに掴みかかろうとする男の行動を遮るように、母親が体を割り込ませる。
「待てだと!? おい、彩師。この彩色香は俺が買ったやつで間違いないな?」
 イノーラの巨体の後ろにすっかり隠されていた彩師が水を向けられ、浅く頷いた。証人として半ば強制的に連れてこられたのだ。
 彩師は眉間に皺を寄せ、厳しい表情で少年を見下ろす。
「馬鹿なことをしたな」
「おまえが、色を買ってくれないから……!」
 彩師に責めを向けたグレンの頬に、パシッと平手が飛んだ。母親の手だった。
「なんてことを……」
 息子の頬を打ったばかりの手を震わせる母親の顔には、怒りよりも悲しみが浮かぶ。
 グレンが何のために盗みを働いたのかは明らかだ。母親はやり切れぬ思いで息子を抱き締めた後、イノーラに向き合って頭を下げた。
 しかし、この男がそれで引き下がるはずもなく、
「謝ったって解決しねーんだよ。彩色香は使っちまった。この家に賠償できる金なんざねえだろうが。小僧!」
 男は矛先をグレンへと向ける。口元を歪め、いやらしい笑みを浮かべた。
「お前の色を俺に寄越せば許してやろう。十色ほどな。彩師もいるんだ、ちょうどいいだろ」
「十色も……! 取るなら私の、私の色をっ」
「てめぇのケツはてめぇで拭けや」
 ドスの利いたイノーラの声に、グレンの心臓はぎゅっと縮んだ。
 盗みが悪いことだとわからない年齢ではない。わかっていた。ただ、母親に色を見てほしかった。
 グレンは隣にいる母を見た。悲しそうな、母の顔を。
 色が増えても喜んではくれなかった。むしろ、悲しませただけだ。
 自分が悪いことをしたからだと、少年はやっと本当に理解した。
 ごめんなさい、が声にならなくて、グレンは黙ったまま、一度だけしっかりと頷いた。
「よし、彩師やってくれ」
「イノーラさん。言っておきますが十色分の施術代はあなたからいただきますよ。子供から色を取るのは本意ではないんです」
 やらない、と拒否することも彩師にはできた。しかし、この親子が彩色香を賠償できないのなら、イノーラの気を収めるためにはいたしかたないと言わざるを得ない。
 施術代を払えと要求すれば考え直すかもとも思ったが、イノーラは引かなかった。
 仕方なく、彩師は少年の前に立つ。
 袖の中から彩色香に似た瓶を取り出した。中身は色のない透明な液体だ。
 瓶の口がグレンの顔に近づくと、それだけで強烈な刺激臭が鼻をついた。思わず顔を背けようとするグレンの頬を、彩師が掴んで固定する。
 鼻の奥がつんとして、閉じた瞼からは涙がこぼれ落ちる。その一滴を、彩師は彩色香用の小瓶の中に掬った。
 グレンの顔から手を離し、彩師は小瓶を振ったり息を吹きかけたりと決められた手順で術を施す。涙から、色を抽出するのだ。
 しばらくして、透明な小瓶の中身を色のついた液体が満たす。色を確認すれば出来あがり。
 しかし彩師は、瓶の中に不思議なものを見る。
「なんだ、これは……」
 普通、彩色香は一色の液体だ。
 それなのに、少年から取り出して作った彩色香は、複数の色が混じりあって揺れていた。あり得ない。術を間違えたかとやり直してみるが、瓶の中身は変わらずマーブル模様だ。ゆっくりと小瓶を回すと、見る角度によって色の組み合わせはさまざまに変化する。
 彩色香は、液体の色がそのまま取り込む色となる。
 だとすれば、この彩色香で取り込める色は――。自ずと一つの結論に辿り着く。
「どうした? 失敗したのか?」
「いえ……。イノーラさん、試してみませんか。もしかすると」
 もしかするかもしれない。
 彩師は返事を待たず、作ったばかりの彩色香の蓋を開け、イノーラの顔へと近づける。
 男は一瞬怯んだものの、漂う甘い香りに誘われるようにして大きく鼻で息を吸った。
 カラフルな煙がゆっくりと、男の中へと取り込まれていく。
 やがて、すべての色を吸いきったイノーラは、目を大きく見開いた。
「な、なんだこりゃあ!!」
 素っ頓狂な声を上げ、何度も瞬きを繰り返す。目を、開いたままにできなかったのだ。あまりに世界が眩しすぎて。
「色が増えましたか?」
「増えたなんてもんじゃねえ……こいつはとんでもねぇぞ! 世界が変わっちまった……」
 簡素な家の中は決して彩り華やかとは言えない。それでも、灰色だった壁はレンガ色に変わり、窓から差し込む光はやさしいオレンジ色をたたえている。
 窓の向こうに沈みかけの夕日が描く美しいグラデーションまでもが、今でははっきりと見えていた。
 その色の量に圧倒されて、先ほどからイノーラの口は開きっぱなしだ。
「この子の失色率は?」
 彩師は問いに、母親は一瞬だけ答えをためらう。
「……ゼロです。この子は、失色症ではないんです」
 彩師は信じられない思いでグレンを見た。当の本人はきょとんとした顔をしている。
 失色症ではないことがどれほど珍しいことか、グレンは知らなかったのだ。
 そのグレンから、色を取ってしまった。
「色は、見えてるか?」
 彩師はひどく後悔しながら、恐る恐る尋ねる。
「……わかんない。暗くなった気もするけど」
 先ほどよりも日が陰ったせいかもしれない、とグレンは曖昧に答えた。
 彩師は今度はイノーラへと視線を移して尋ねた。
「まだ色を取りますか? この子は貴重な存在だ。私は、もう手を出したくない」
 不満そうな顔を一瞬見せたものの、色を手に入れた男は首を横に振る。
「これ以上、色が見えすぎても困りそうだ」
 窓の外の眩しい世界に目を細めて呟かれた、この言葉こそが本音だった。
「できれば少し、この子を調べさせていただきたいのですが」
 彩師の申し出は再び母親へと向けられたもの。
 しかし、彼女が答えるよりも先に、グレンが彩師の腕を揺すった。
「おれの色、取ってくれよ。おれは平気だから、俺の色を母さんにあげてくれたら協力してもいいよ」
 グレンが口にしたのは、店で告げたのと同じ願いだ。
「駄目だ。次、色を取ったら本当に見えなくなるかもしれない」
「見えなくてもいいんだ! おれだけが見えたってつまんないよ!」
 たくさんの色が見えても、それは皆の見ている世界とは違う。たくさんの色を絵に描いても、それは皆の目には見えない。
 グレンはおぼろげながら気付いていた。自分にしか見えない色が、たくさんあること。その色を一生懸命、絵の具で作って描いても、やはり自分にしか見えないこと。
 グレンの見ている世界は、そういう世界だ。
 色を生業とする分、彩師は人よりも色がよく見えるほうだ。それでも失色率はゼロではない。数パーセント、見えない色がある。
 彩師は想像する。すべての色が見える世界。共有する者のいない世界。
 ほかの誰にも見えないものが自分にだけ見えていることは、実は恐怖なのではないかと。
 彩師は再び、色を取り出す盗色香の透明な瓶を手にした。
 少年の願いを、叶えるために。


 そのあとの話を、少しだけしておこう。
 グレンの彩色香を嗅ぐ前に、母親は最初にその目で見るものとして、グレンの描いた絵を選んだ。グレンの描いた色とりどりの世界を見るのだと。
 母親に見てほしかった。ただ、それだけだったのだ。グレンの願いは叶えられ、母は美しい絵に涙を流した。
 グレンの彩色香で色を増やしたイノーラは、医者に失色率一パーセントと診断されたという。
 彩師は何度もグレンから色を取り出し、彩色香を作った。そう、数えきれないほどに。
 たった一瓶で失色率を一パーセントにまで下げられる彩色香の噂は、あっという間に町中に広がり、商人の手によって隣町へ、そして国中に、年月を経て海の向こうにまで伝わることとなったのだ。
 たくさんの人が、グレンの彩色香を使い、色を取り戻した。
 成長したグレンは絵描きになった。色を取り戻した人々が、グレンの絵を正しく評価できるようになったのだ。
 一方で、グレンの世界は少しずつ色あせていく。
 皆に色を与えた分だけ。
 色とりどりの世界が徐々に灰色に変わるのを、グレンは静かに見ていた。


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