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C10  SIKI

 ぼくはどうしてこの人が好きなんだろう。
 どうしてこの人はぼくを好きなんだろう。

 きしきしと床板が鳴った。猫のように静かに、白すぎる素足が廊下を歩く音。帰って来たんだ。微かな安堵を覚えながら、ぼくはその音に耳を澄ます。
 間もなく障子が開き、黒橡の絽の着物と、牡丹色のペディキュアのつま先が見えた。
「諒、もう眠った?」
 機嫌良げな女の声が、ぼくに呼びかける。
「まだ起きてるよ。お帰り、……色」
 ぼくは布団から身を起こし、常夜灯の薄い灯に浮かぶ色と目を合わせた。
「ただいま」
 色は屈んで、いつものようにぼくの頬に触れた。冷たい指がくすぐったい。ぼくは首を竦める。
 お酒の臭いにまじる微かな香りを、ぼくの鼻が嗅ぎあてた。記憶を探る。ややアンバリーな男物。思い当たる顔はない。
「飲んできたんだね」
「少しだけね」
「新しいお客さん? 恋人の方?」
「新しい恋人よ。よく判ったわね」
「だって、知らない香りがするから」
 正直に答えると、敏感ね、諒は、と色が笑う。
 シキ。漢字一文字で、色。フルネームなら桜川色子だ。
 ぼくの母親で、たった一人の家族である彼女を、物心ついて以来、ぼくは色としか呼んだことがない。彼女がそう望むからだ。
 画商桜川の柱である色には、何人も恋人がいる。
 ぼくは色が多くの恋人を作るのは、寂しいからだと思う。この家は二人では広すぎるから、ぼくだって人恋しくなるもの。
 昔から色はもてる。綺麗だからだ。肌はきめこみ人形みたいに真白だ。肩の下で切りそろえた黒髪は真直ぐ。スッと刷毛で掃いたような眉。黒目がちの切れ長な目。完璧に整った鼻は小さめで、紅をさした唇は誘うようにぽってり厚い。小さな頭と黒橡の着物に包まれた華奢な体は少女のようで、実年齢より色を十以上も若く見せる。大きな目で手足ばかり長い日焼けしたぼくとは正反対な色は、それでよくぼくの姉だと勘違いされるんだ。
「誠二さんから連絡があったよ。明日来るって。仕事がひと段落したみたいだ」
 ぼくは昼間受けた誠二叔父さんからの電話を伝えた。
「あら。ご用事かしら?」
「顔を見たいんじゃないかな」
 色の、とは続けずにおく。言わなくても分かりきったことだ。
「そう……」
 色は小さく首を傾げ、立ち上がる。いつもと同じ。興味がないらしい。
「諒、相手してあげてね」
「寝るの?」
 廊下の先へ消えていく背中に、ぼくは声をかける。
「お湯を浴びるわ。人の臭いをつけたまま眠る気はないもの。……おやすみなさい、諒」
「おやすみなさい」
 ぼくは布団に潜りなおし、目を閉じて床板が鳴るのを聞く。障子を二度開け閉めする音。風呂に続く引き戸の音。ボイラーが動き出し、それから青いタイルを打つ雨に似た雫が……。


 ちりん、ちりりん。軒先の風鈴を風が弄んでる。行ってしまう夏を惜しむ蝉の声。ウィングチップの底が庭石を踏んでやってくる音がする。
「やあ、宿題かい?」
 縁側から上がり込んだ誠二さんは、座敷中に散らかったノートを見てぼくに声をかけた。ぼくは冷たい畳に寝そべって文字を追っていた。読んでいるのは教科書じゃない。買ってきたアイドル誌だ。
「勉強してるように見える?」
 ぼくは首を回し、ぼくよりも随分天井近くにある彼の顔を見上げた。
「いや、ちっとも。でも何かのレポートに使うのかもしれない」
「アイドルの動向調査だよ。最新のをインプットしておかなくちゃ」
「クラスの話題についていくために?」
「そうだよ。遅れると大変だから」
「友情にかかわったりするのかな?」
「とてもね。友だちに無視されるのは困るから」
「なるほど。女子高生は大変だ」
 誠二さんは、風を強くした扇風機の前に胡坐をかいて座った。ポロシャツのボタンを外して胸元に風を入れる。松葉の香りにまじって、薄くかいた汗の臭いが流れてきた。
「冷たいお茶が一杯、歩いてこないかな」
 ぼくは無言で立ち上がってキッチンへ行き、氷を浮かべた緑茶をくんで戻ってきた。誠二さんは、美味そうに喉を鳴らして冷茶を飲み、ぼくはグラス越しに動いている喉仏を眺める。
「ごちそうさま。最近はどう?」
「変わりないよ、色もぼくも。誠二さんこそどうなの? お仕事また雑誌に載ってたね」
「僕の方も変わりばえしないよ。作品を見てくれたんだね、どうだった?」
「綺麗だったよ」
「うん」
 誠二さんの口元がほころぶ。
「色に似てた」
 途端、誠二さんの眉が落ちた。
「今回のは違うと思うんだけどなあ」
 仰向いて嘆息する。流し目でちらちら見てきたって、撤回してあげないよ。
「無理だよ。誠二さんは色の顔しか作れないもの」
 がっくりと誠二さんは肩を落として、うなだれてしまった。可哀想だけど本当のことだ。誠二さんは色の崇拝者だもの。
 一見実業家風に見える誠二さんは、人形作家だ。桜川輝青という耽美な名前で作る少年少女の人形は、冷たくて妖しい雰囲気が魅力だと愛好家の間で相当な人気がある。ぼくは死体みたいであまり好きではないけど、雑誌などに載っているのを見続けるうちに、その顔がどれも色に似ていると気付いた。あからさまに似てるのから、かすかな面影があるのまで、ぼくにはわかる、色を映したってことが。
 昔から通ってくれてる家政婦の岩田さんが言ってた。誠二さんは若いころ、色に熱を上げてたそうだ。何度振られても懲りずにアタックし続けて、ぼくが生まれるまで相当凄かったらしい。
 そもそも色と父の桜川誠一、それに父の弟の誠二さんは、幼馴染だ。互いにオムツの頃から知っていて、代々続く画商の桜川家を継ぐ為に、父さんと色が選ばれて結婚した。誠二さんはそれでずっと傍目にも未練たらたらだったそうだけど、ぼくが生まれてようやく諦めをつけたみたいだって、岩田さんは言う。でもぼくは誠二さんは今も色を狙ってるとふんでるんだ。だって家に来るたびに、色は? てぼくに聞くんだよ。色は昔も今も全然相手にしていないみたいだけどね。
 ぼくはまた寝そべって文字を追い始める。
 手持ち無沙汰に空のグラスを玩んでいた誠二さんが、ショートパンツから伸びるぼくの素足をつっついてきた。何? とぼくは顔を上げる。誠二さんは、スカート、と言って畳へグラスを置く。グラスに残った水滴で畳に青い染みができるのが見えて、ぼくは少し眉をひそめた。
「前に買ってあげただろう。あれははいていないの?」
「はいてない。制服のだってうんざりなのに、ぼくがはく理由がないよ」
「もったいないね、諒に似合うデザインなのに。髪を伸ばしてお洒落すれば、諒は今よりもっとかわいいよ」
 ぼくは苛々してきた。女の子らしいお洒落だって? ぼくは色に似てない。色みたいに綺麗じゃない。ひょろ長い手足の男の子みたいなぼくに、かわいい服は似合わないに決まってるのに、なんで貴方はそんなことを言うの。
 むくむくと嫌なぼくが首をもたげる。ぼくは起き上がって、誠二さんを睨んでいた。
「それで色に似れば喜ぶんだね、誠二さんがさ」
 いじわるな気分で口にしたぼくに、諒子くん、と誠二さんの眉がはねた。
「僕をそんな風に思ってるのかい?」
 言いすぎた。大人の迫力にぼくはすぐさま後悔する。
「ごめんなさい。暑くて苛々してるんだ。誠二叔父さんがそんな人じゃないって、よく解ってるよ……」
 ぼくは素直に謝る。
 いや、と誠二さんは口ごもった。
「僕も冗談にむきになった。大人気なくね」
 ぼくの頬を、なだめるように乾いた指の背がなでる。
「怖い声を出して悪かったよ、諒」
「うん。……ねえ、誠二さん」
 ぼくは目を閉じて薄く唇を開く。温かく湿った感触が口を塞ぎ、冷茶の匂いが舌を弄った。

 時々考える。父さんが生きてたら、ぼくと色、誠二さんの関係は違ったろうか。
 ぼくは父の桜川誠一をアルバムでしか知らない。ぼくが物心つく前に、祖父母と一緒に事故で亡くなったからだ。
 写真で見る限り、父と誠二さんはそっくりだと思う。兄弟だけど一卵性の双子みたいなんだ。
 今よりもっと自分が解らなかった時分に、ぼくは調べた。エレクトラコンプレックスて言われるもの。父親に恋焦がれる不毛な王女から名付いた感情さ。そんなので誠二さんを好きになったのじゃないはずだとぼくは否定するけど、完全に否定しきることもできない。だからずっとぐるぐる回ってしまう。どうしてこの人を好きなんだろう。どうしてこの人は、ぼくにキスするんだろう。


 九月に入ったからって、すぐに暑さが和らぐわけじゃない。うんざりする熱気が陽炎になって、ゆらゆら嘲うようにアスファルトから立ち上ってる。
 こんな時間に外を歩くなんてごめんだけど、休み明けのテスト期間だ。学校は早々にぼくらを追い出し、暑くて湿った不快な空気の中をぼくらは帰宅することになる。
 ぼくの通るビルが多い通学路には、たいして日陰もないから、歩いてるうちに照り返しでくらくらしてきた。ああ今すぐカキ氷が食べたいと僕は思う。口中が真っ赤に染まる苺シロップのがいい。冷たい畳に転がったら、汗まみれの制服なんか捨ててしまって、冷房をギンギンにきかせて惰眠をむさぼりたい。
 よろよろ歩むぼくを、銀色のセダンが追い越していく。左ハンドル車だ。名前は知らないけど、きっと高い車だよ。ぼんやり見送ったぼくの視線の先で、セダンがウィンカーを出した。ぴたり、路肩に止まったセダンの窓ガラスが、音もなくするすると下りていく。
「諒」
 聞き知った声が、半ば蓋をされたようなぼくの耳に滑り込む。うんと体を伸ばして、サイドシートごしにセダンの窓から誠二さんが頭を突き出してる。
「今帰りかい?」
「うん。テスト期間だもの。誠二さんは?」
 ぼくは暑さで気が遠くなるのを耐えて笑顔を向ける。ああ暑い、暑いよ。早くこの灼熱地獄から脱出したいな。
「友人兼お客さんの店へ行って戻ってきたところ。すぐ近くなんだ」
「そう。忙しいんだね」
「まあまあだよ、ここのところ少し控えてるからね」
 答える誠二さんの声がぼわぼわする。おかしいな、明るいはずなのに目の前が暗いんだ……。

 ぼくは多分熱射病にかかったんだ。気が付けば誠二さんに抱きかかえられて、後部シートに寝かされるところだった。
「大丈夫かい、諒。顔色が真っ青だ。貧血かな、脈が速いね」
「気持ち悪い……」
 ぼくは冷やさないように汗を拭う手を押しのけ、スカーフを抜き、セーラー服とスカートの脇を緩める。誠二さんがたじろぐ気配がしたけど、これで少し楽になった。
「ごめん、少し涼んでいかせて」
 ぼくは目を閉じたまま誠二さんにねだる。
「かまわないよ。家まで送ろう」
「駄目。今車に揺られたら、ぼく絶対に吐いちゃうよ」
「そうは言っても、ここは長く駐車できるような場所じゃないし」
 困ったなと誠二さんが呻る。困らせるつもりはないよ。けど、本当に無理なんだ。まだぼくの体は胃を吐き出したがってむかむかしてる。
 ぼくの顔を覗いていた誠二さんの気配が離れて、運転席へ移動する。
「一分だけ我慢してもらえるかい? 諒、できるだけそっと運転するよ。僕の友人の店に行って休ませて貰おう」
 本当は若い女の子を連れて行く場所じゃないんだけどね……。静かに唸るエンジンの音に紛れて、誠二さんの呟きがぼくの上を流れていく。


 数日後にぼくは生徒指導室に呼び出された。母親の色にも連絡が行った。
 あの後誠二さんがぼくを連れて行ったのは、怪しげな辺りにある店だった。店の飾り窓には、誠二さんの作の中でも一番いかがわしい姿の人形が飾られている。掲げられた看板を見て、誠二さんが連れて行きたくないって呟いた意味も解った。布の少ないドレスの女の人が男の人を歓迎する、そういう類の店なんだ。
 ぼくらは誓って疚しいことはしなかったよ。体調の悪いぼくが、ただ誠二さんの友人の処で休ませてもらっただけだ。だけどぼくらが店に入っていくのを、お節介な誰かが見ていたらしい。学校に電話があって、いかがわしい店に入った生徒がぼくだったって、とうとう教師につきとめられてしまった。

 ぼくは生活指導の関にねちねち苛められた。侮辱だ。端からぼくらがそういう目的で店に入ったって決め付けてるんだ。いくら真実を話したって、全く耳を貸しやしない。一時間にもわたって、ありもしない罪で責められて、ぼくの苛々は最高潮だ。
 あげく呼び出されて来た色に関が吐いた台詞、失礼ですがって前置き通り本当に失礼でさ。
「お父様はおられませんし、お母様も随分お若くて、色々華やかでらっしゃると耳にしております。そういうお宅で育ったお嬢さんですから、教育の欠けている部分がおありなのではないかと危惧してるのですよ」
 これが仮にも教育者の言うことなの? 信じられないよ、品性の教育が欠けてるのはどっちなんだい!
 噴火寸前のぼくと違って、色は冷静だった。色は少女の見た目をしてるけど、画商桜川色子として荒波をくぐってきた大人の女性だ。普段から海千山千の妖怪みたいな連中を相手にしてる彼女には、この程度の嫌味はそよ風みたいなものだろう。
 色はぽってりと厚い唇を開いて言った。
「桜川の家は代々続く画商です。ビジネスの関係で、色々な方とお付き合いがありますの。時々その事を勘違いなさって、噂する方がいらっしゃるのですわ、困ったことですわね」
 それでにっこり笑った色の艶やかさ、迫力といったら!
「もし仰るようなことがあったとしても、様子を聞く限り、相手は桜川を継ぐ婿、私も認めた諒子の夫ですわ。桜川の女子は十六で結婚しますの。夫と妻が交わったからといって、目くじらを立てるのは、おかしな話でございましょう?」
 二の句を次げない関は、口をぱくぱくさせている。胸が空くね。


「ごめんね、呼び出しを受けるなんてはめになっちゃってさ」
 隣で運転する色に、ぼくは声をかける。
「でも、本当に何もないんだよ。本気で体調が悪かったから、休ませてもらっただけで」
 誓ってぼくと誠二さんは、キス以上のことはしていない。どんなにぼくが誘っても、いつだって誠二さんは、キス以上はしてくれないんだ。それはぼくを女として見てくれてないからだと思うから、ぼくは苛々して不安定になる。
「謝らなくていいわ。わかってるもの」
 色はサイドミラーを確認するついでに、ちらとぼくを見た。
「でも誠二さんとは一度ちゃんと話さなくちゃね。私の娘に手を出すなら筋は通してもらわないと」
「色、それは!」
 やっぱり色も信じてないってことなの?
 色ははんなりと笑う。違うわよと。
「あの人、遊んでるように見えて実は堅物なのよ。本気で好きな相手には、簡単に手を出さないの」
 それって……。
 つまりぼくらのこと、ばれていたの? でもそんなそぶりはちっとも……。
「見れば判るわ。あの人、キス以上は諒にしなかったでしょう? 本気なのよ」
 ぼくは舞い上がる。
 ぼくは色の代わりじゃない。女として見られてないわけでもなかった。両想いだって己惚れていいのかな? 本当に?
「帰ったら電話するわ」
 隣で色が呟く。とっちめてやるんだからとその後に聞こえたのは、きっと空耳だよね?


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