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C09  赤い鞄

 暗い部屋だった。なぜだろう、ちゃんと蛍光灯の光が点いているのに。
 暑くも寒くもなく、ただ暗いだけの部屋で、私はぼんやりと目前の銀色の台に載せられた肉塊を見つめている。パチパチと明滅する蛍光灯が無慈悲に照らすそれを。
 赤黒い裂け目のあるものは腕か。なら、そちらにあるものは足だろう。レースのついた靴下を履いている。冗談のようじゃないか。これが、この肉の塊が元は人間だったって?
 ご愁傷様でございます、と脇にいた男が言った。なぜ、私がお悔やみの言葉を掛けられねばならないのだ。私は訳が分からず、眉を寄せて男を見た。
「弓子様です」
 なに? と私は聞き返す。

「──あなたの奥様です」





 外に出ると、じっとりした暑さが私を迎えた。私はハンカチを取り出して額の汗を拭く。何か言いながら脇の男が名刺を差し出した。私は阿呆のように今自分が名刺を持ち合わせていないことを告げ、それを受け取った。
 ──丸の内警察署。波多野良三。刑事課。巡査部長。
 昨夜の23時15分、東海道線の終電まぎわの電車でした、と男は話を切り出す。しかし私は彼のよこした名刺を見つめていた。刑事か。それなら名刺を渡す必要もないな、とぼんやり思いながら。
「弓子様は、昨夜東京駅の下りホームにいたようです。40代後半ぐらいの女性が独りでいるところが目撃され、防犯カメラにも映っていました。この方です」
 奥様に間違いありませんか、と言いながら波多野は一枚の写真を私に差し出した。
 灰色のワンピースに大きな赤い旅行鞄。こちらから顔を背けた彼女はホームに入ってこようとする電車を見やっている。
 私は写真を返し、うなづいた。
 弓子は、東京駅で電車に轢かれたのだという。昨夜の話だ。私は彼の話を聞きながら、ようやくその現実を受け入れつつあった。線路に散らばった彼女自身と、遺品の中から見つかった免許証で彼女の身元が判明し、私に連絡があったというわけだ。
 私の脳裏で様々な映像がぐるぐると再生されていく──。
 いってらっしゃい。今日は遅いの? とキッチンに立ったまま言う弓子の背中。それと以前、駅で見てしまった轢死体の光景が重なった。大きな電車の車輪の脇から突き出していた白い腕。駅員がそれを拾おうとして、ぽろと転がる。命を失った肉塊の無機質な動きに私は戦慄した。
「実はまだ分からないことが多いのです」
 私が黙り込んだからだろう。波多野は低い声で先を続ける。
「奥様が自ら電車に飛び込んだのか、それとも誰かに突き飛ばされたのか。それすら分かっていません」
 私はただ刑事の顔を見た。思い浮かべてしまった映像に心を奪われ、彼からの言うことが半分ほどしか理解できない。
「直前に防犯カメラが故障したのです。ほかに目撃者は見つかっておらず、運転手もなぜか彼女の姿に気が付きませんでした。電車はそのままホームへ──」
「あの、刑事さん」
 正直、彼の言っていることに興味が持てなくなり、私は半ば乱暴に話に割り込んだ。
「そんなことより、なぜですか」
 私は自分が微かな憤りを感じていることに気づいていた。この波多野が私のもっとも聞きたいことを言わないからだ。
 私は先ほど見た肉塊を思い返している。蛍光灯に照らされていたそれの中には、あるべきものが無かった、のだ。それが無いが為に、私は妻が死んだということを中々受け入れられないでいる。
 相手の目を見ながら、私は言い放った。

「彼女の首だけ──なぜ、見つからないんですか」

 彼は何か言いかけて言葉を飲み込んだ。代わりに頭を垂れてみせる。
「申し訳ありません。鉄道警察隊と共に全力で探しております。どうかお待ちください」
「全力で探してるって……もう半日以上経ってるのに、首だけ見つからないなんて、そんなあり得ない──」
「稲森さん」
 波多野はしっかりした声で私の名を呼んだ。
「お気を確かにお持ちください。実は、奥様の首部分とともに現場から見つからないものがあるのです」
「何だって?」
「……これです」
 さっと、先ほどの写真を差し出す刑事。彼の指が指し示すのは、彼女が持っていたもの。
 大きな──赤い鞄、だった。





 葬儀を終えても、彼女の首は見つからなかった。イギリスに住んでいた息子は金髪の妻を伴い帰国したが、数日でまた慌ただしく戻っていった。
 急にたくさんの人間に囲まれたと思えば、私はすぐに独りになっていた。人が一人死ぬということは……本当に、ただその人間だけが消えたように居なくなるだけなのか。
 私は暗いリビングでテレビを見ていた。静かな夜だ。冷蔵庫から、葬儀で余ったと義姉が押し付けていった缶ビールを取り出し、そのまま飲んだ。──家にいる時ぐらいグラスで飲んだら? と脇から口を出す人間は居ない。
 本当に弓子は死んだのだろうか。
 実のところ私は、あの肉塊を見て以来その考えから抜け出せずにいる。何も変わらない日常だった。朝、家を出て会社に行き、夜に帰ってきたら弓子がいなかったという、ただそれだけだ。食卓には、ぽつんと食事が用意されていて「出かけてきます」のメモが添えられていた。私は仕方なしに彼女の帰りを待った。
 葬儀は終えたものの、私は心のどこかで、まだあの日常が続いているような、自分が夢でも見ているのではという思いを持ち続けている。
 ふと、警察から連絡をもらった時に真っ先に見た携帯電話のことを思い出した。弓子のもので、数日前に私が彼女から取り上げたものだ。
 知らない人間とのやりとりがその中に詰まっていた。他愛ない日常のメール。私は不快感を感じながらも、この携帯電話の中から弓子がなぜ東京駅にいたのか、理由を必死に見つけ出そうとした。
 何もなかった。
 浮気の証拠などがあれば、それで説明がついたのに。彼女の電話の中には、ただの日常しかなかった。
 その携帯電話を取り出して、メール、電話帳などを流してみる。女性の名前ばかり。何時にどこそこの店で、先に入って待ってていいよ。誰それさんは遅くなるらしいから──。彼女たちは夫が会社に行っている間、その膨大に余った昼の時間を、連れ立って外食に行ってお喋りするなどして消費しているのだ。
 そういったことに抵抗感を持ったこともあったが、男だって変わらないと今では思っている。私たちも会社という空間を共有し、その中で膨大に余った時間を、連れ立って会議室に篭ってお喋りするなどして消費しているのだから。
 そういえば。と私は思いついた。私は手帳でスケジュールを管理しているが、彼女たちはどうやってスケジュールを管理しているのだろうか。
 もしかして。私は思いつきを実行に移した。携帯電話のスケジュール機能を探したのだ。使い慣れない機器のボタンを押し続け、私はようやく妻の予定を見つけることができた。
 あの日、彼女は何を。





 偕雲荘という旅館はすぐに分かった。箱根の強羅温泉にある古い旅館だ。
 小田原から箱根湯本へ。そこで箱根登山鉄道に乗り換えると終着点が強羅駅だ。古く味のある風貌の電車に乗り険しい山を登っていく。偕雲荘はさらにケーブルカーに乗った先の中強羅駅にあるらしい。
 中国人観光客ばかりのケーブルカーを降りると、ひどく傾斜のある駅に着いた。中強羅だ。夏の暑い日差しに照りつけられながら、私は独り駅に降り立った。
 何をしているのだろうか。私は。
 草木の緑に、焼けるような日差しを返されながら、私は独り自問する。弓子が泊まろうとした宿に行って一体、何があるというのか。あれから一週間も経っているというのに。
 しかし私は駅舎を出て足を踏み出していた。もう来てしまった。帰るに帰れない。
 偕雲荘は街外れにひっそりと建っていた。背後に控える山肌から濃い緑の木々が枝葉を伸ばし木造の建物に趣きを加えている。私はその木々を見上げ逡巡したものの、旅館の中へと足を踏み入れる。
 中には落ち着いた空間が広がっていた。壁はつやつやと年季の入った飴色の光沢を放ち、床には深紅の毛氈が敷かれていた。天井隅には間接照明があり、フロアを柔らかく照らしている。客を迎え入れるのに申し分ない空間だ。奥にはフロントがあり和服姿の女性が二人、にこやかに笑顔を返してくる。
 仕方ない。
 私は意を決してフロントに大股で歩いていった。
「実は、宿泊ではないんだが」
女性たちのいらっしゃいませという挨拶に、早口で切り出す私。「ちょうど一週間前に、ここに稲森弓子という女性が予約を入れたはずなんだが、その件で聞きたいことが」
 女性たちは顔を見合わせ、片方の50代ぐらいの方が口を開いた。
「失礼ですが、お客様はその方とどのようなご関係でいらっしゃいますか?」
「夫だ。稲森弓子は私の妻だ」
 怪しまれるのは当然だ。いきなり追い返されないのは老舗旅館ならではの対応なのだろう。
「妻が行方不明になって、ここに宿泊することにしていたことが分かって……」
 私は明らかに挙動不審だっただろう。思わず口から飛び出したでまかせに、私は我ながら驚いていた。その“行方不明”という単語が自然に自分の口から出たことに。
「何か、お客様のことを確認できるものはございますか?」
 フロントの女性は冷静だった。これといった表情を浮かべずに言う。私は、うなづいて財布から免許証を取り出して彼女に渡した。
 彼女はそれを確認し、もう一度鋭い目つきで私を見た。容貌を免許証のそれと照合したのだろう。ありがとうございます、と免許証を戻すと手元のパソコンに目を移した。
 今回は特別ですよ、と前置いて彼女はマウスを手にした。私は安堵のあまり、礼も言えずにただ頭を下げて彼女の様子を伺った。
「そういった方の予約はありませんね。ただ──」
 あまり間をおかず、彼女は言った。
「稲森夕子さんという方はお見えになりましたよ」
 ねえ、と隣りの若い方に話を振る。上司が言っても良いというのだからと、彼女は自分の知っている秘密を惜しげもなく打ち明けた。
「ずいぶん遅い時間でしたよね。大きな赤い鞄を重そうに持って、お独りでお見えに」
 思わず、私は手にしていた財布を落としてしまった。
「本当ですか」
「ええ」
 手の震えが止まらず、私は受けた衝撃の強さに総毛立って、足の力まで抜けてくるのを感じる。
 気が遠くなるほどのショックだった。馬鹿な。その日に弓子が、ここにいるはずがない。彼女は東京駅で電車に、大きな赤い鞄を持って独りでいたはず──。
 大きな赤い鞄を、重そうに、独りで──





 ぐるぐると世界が回っているようだった。
 見上げた森の木々が、木漏れ日が回りながら私を突き刺す。私はどこに向かっているかも分からずただ足を動かしている。
 強い日差しのはずなのに、なぜか暗い。この闇は一体何なのか。
 弓子。
 弓子、お前はどこに向かっていたんだ。
 あの日旅館に現れたのが弓子で無いのなら一体誰だ? 鞄に入れて、何を持ち歩いているのだ。もし、あれを持ち歩いているのなら──私に返してくれないか。
 木々と無機質なコンクリートの旅館たちが、私を取り囲んで暗がりを作る。私は、犬のようにハアハアと息を切らせた。こんなところに居たくない。早く、明るいところに出ていきたい。暗くて、暑くて、苦しくて、こんなところに一秒だって居たくない。弓子、助けてくれ。弓子、弓子……
 緑と白熱光の中に、赤いものがちらと見えた。
 灰色のワンピースから覘く二本の足。赤いものは──鞄だ。それを持つ手が見える。誰だ? 私は相手の顔を見ようと顔を上げる。
 はっ、と我に返った。
 ここは中強羅の町の路地だ。遠く見える駅舎に、ちょうど一人の女が入っていくところだった。見紛うはずもない赤い、あの鞄を手にして歩いていく女の背中。

 ゆみこ、と私は叫んだ。

 お前が言ったんじゃないか。
 お前が何でもいいっていうから、赤い色にしたんだ。
 あの鞄は、私が彼女に贈ったものだった。旅行鞄が欲しいと言っていたので、誕生日の贈り物に私はあれを買ってやった。店頭で私は弓子に聞いた。何色がいいんだ? と。
 彼女は何色でもいいわ、と言った。だから、私が赤を選んだ。彼女が赤いものを持っているのを見たことが無かったからだ。
 嫌だったのか? あの色が。
 なら、なぜ言わなかった?
 どうして、私に言わなかったんだ。





 気がつくと、私は白い蒸気の煙の中にいた。ごつごつした岩肌が煙の間から見え、木々の緑は視界から姿を消している。
 源泉があちらこちらから湧き出す、景勝地の大涌谷だ。
 私は血眼になりながら、あの姿を探している。弓子だ。弓子がここにいるはずだ。ずっと、見えていたのだから。ケーブルカーに乗った時も、ロープウェイに乗った時も。
 たくさんの観光客の姿を目で追い、私は転がるように遊覧コースを走る。山の斜面からは火山ガスが噴出して、空に向かって何本もの蒸気の煙を立ち昇らせている。
 ガスの近くでは草木も生えない──死の世界だ。
 弓子がここに来たことも分かるような気がして、私は自分の中から沸き起こった異様な考えを意識し始めていた。早く、早く弓子を。今、連れ戻さなければ、彼女は本当に死んでしまうのではないか。
 観光客の中に、赤いものが見えた。
 弓子だ! 私は人ごみを掻き分けて赤いものへと突進した。あの大きな赤い鞄が、人の間を縫うように逃れていく。あれが、あれが弓子だ。
 私は叫び、それを追いかけた。
 階段を駆け上がり、息せき切って私は走った。弓子を連れ戻したかった。携帯電話を取り上げたことを謝りたかった。何が不満だったのか聞きたかった。
 人の波が途切れ、独りで立つ女の背中が目に入った。彼女は煙の上がる山肌を見上げている。
 私は彼女の名を呼び、その肩を掴んだ。
 キャッ、と相手は悲鳴を上げる。振り返ったその顔は──全くの別人だった。まさか、と私は彼女の顔を凝視した。違う、弓子じゃない。
 馬鹿な! 私は慌てて、その彼女が持っていた鞄をもぎ取った。ずっしりと重く、質量を感じさせるものだった。女が何か叫んだが無視した。私は弓子を取り戻さなければならないのだ。弓子を助けるのだ。この中にいる弓子を──。


 私は乱暴に、鞄のジッパーを開いた。


「──さん、稲森さん!」
 肩を叩かれ、私は我に返った。振り向くと逆光で暗かったが、それが先日会った刑事の波多野だということに気付く。
「さっきからずっと声を掛けてたのに、気付きませんでしたか?」
 なぜここに彼がいるのだろう。ここは大涌谷ではなかったか?
 彼は、近くにいた女性が辺りの地面に散乱している衣服や小物類を拾い集めて、鞄に詰め直しているのを見、私に視線を戻した。
「奥様の一部が見つかったんです」
 私は呆けたように彼を見つめる。
「例の大きな赤い鞄が、駅構内で見つかったんです。奥様の頭部分は──その中に」
 風向きが変わって、私と波多野を白い煙が包み込んだ。蒸気は私の身体に触れそうになるとすぐに希薄になり空気へと溶けていく。
「一週間も経っているのに、表情が分かるほど綺麗な状態だったそうで──」

 暗い。なぜだろう、ちゃんと太陽が照っているのに。


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