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C04  首長竜、旅に出る

 首長竜テノチティトランが旅に出た。よくあることだとせんぱいは言った。自分探しの旅ってやつ。心配しなくても、カサイ先生のところに人生相談に行くだけさ。
 テノチティトランは美術部の家宝ならぬ『部宝』で、大理石の彫刻だ。体長は三十センチほど。表面はつるっとしていて、奇妙にあたたかみがある白をしている。
 その、世界史の教科書から適当につけたような名の彫刻が、いなくなった。ある放課後部活に来たらば、あるのは台座だけ。ご本人はこつぜんと姿を消していた。
「すぐ戻ってくるさ。探しに行きたいなら行けばいいけど」
 探しにいかないのかとあわてふためくわたしに、せんぱいは言った。油絵を描く手は止めない。この余裕、これが年の功か。
 カサイ先生とは、我が校の創立者、石持葛西の銅像だ。生徒玄関に鎮座して日々生徒を見守っている。そこに自分探しの首長竜が人生相談とは、どういうことだろう。
「そりゃ現代の恐竜ってのは、自分がわからない生き物だからさ」
「というと」
「たとえば皮膚の色とか。ティラノサウルス、何色か知ってるか」
「赤!」
「図鑑とかではだいたいそうだよな。でもそれ、うそっぱちだ。ほんとうはだれにもわかりゃしないんだ」
 思わず首をかしげそうになったものの、考えてみればあたりまえだった。皮膚の化石に当時の色が残っているはずもない。そう考えれば、なにせとうのむかしに絶滅した生き物だ、わからないことは山のごとしだろう。
 わたしが理解したのを見てとってか、せんぱいはまた手を動かしはじめる。
「それよりドドメ色マイスターキノサキ」
「なんだって」
「ドドメ色マイスターキノサキ。おまえ、パレット洗え」
 せんぱいがちらりと視線をやったのは、放りだされた木製のパレット。わたしのだ。洗えと言われて当然。赤も緑も紫も黄色もみんななかよくまざりあって、そのどの色と言うこともできない混沌が広がっている。
 せんぱい、これは三ヶ月前から放置してあるんです。しかも油絵の具。
「これは宇宙を表現」「混沌だからって宇宙と結びつけるなおこがましい、遠大なる宇宙はしみったれたドドメ色じゃないぞ。城之崎ぃ、道具は大切にしろっていつも言ってるよな」
 そう言ってわたしにほほえむせんぱいは、美術部の部長の顔をしていた。
 とはいえパレットのこの混沌模様……筆舌につくしがたし。逃げたい。逃げたいわたしの脳内にふとよぎったのは、カタカナのむれ。テノチティトラン。これだ。
「せんぱい、わたしやっぱり心配なのでテノチーを探してきます!」
 とってつけたような物言いに、せんぱいはたちまち呆れかえった。わたしはみっともなく言いつのる。
「いつもはすぐ帰ってくるって言うけどそれは保証にならないし!」

 引き止めてもむだだと思ってか、せんぱいは案外すんなり送りだしてくれた。
 けれどきっと、逃げたのがわるかったのだ。きちんと尊敬すべき人生の先達の言にしたがっておけば、こんなことにはならなかったにちがいない。
 カサイ先生のところに行くべく階段を下りるわたしの頭のうえに、それはふってきた。
 とっさに見上げたわたしの視界に一瞬で黒い幕が下りた。ぶつかる寸前の光景をわすれはしない。

 階段の上から、首長竜がふってきて、わたしの頭に直撃した。

 なにせ大理石だ。おほしさまが、きらきらした。

 ◇

「よう子、まだか。ほかのみんなはもう決まったぞ」
 おぼえてる、これはおじいちゃんが、孫をみんなつれてデパートにいったときのこと。なんでも好きなものを買ってやると言われた。
「ようちゃん、エビフライかハンバーグか決まった?」
 これは小学生の選択給食のときのこと。クリスマスだけ、エビフライかハンバーグか好きなほうをえらべることになっていた。
「城之崎、志望校は決まったか」
 これはつい最近のこと。中学三年生の、担任の声。
 ようちゃん、よう子、城之崎。わたしの名を呼ぶ幾多の声。
 そのさきにつづくのは、決まった? の催促。そのどれもが、隠しきれないいらだちをにじませている。いつだって最後の最後まで迷っているのはわたし。
 なにもえらべない子どもだった。
「よう子の名前はね、太陽の陽と、太平洋の洋で迷って決めれなかったから、ひらがななの」
 名前の由来を聞く宿題。お母さんの声。
 なにもえらべない子どもだ、いまも。でもしかたがないよねえ。優柔不断な名が体を表しちゃってるんだから。
 視界をぬりつぶすのはドドメ色。何色ともつかない。どの色もえらべないから何色にもなれない。

 ◇

 気は失わなかったものの、手すりにもたれかかったまま動けなかった。きのさき、と呼ばれて我に返る。せんぱいの声だと思って顔を上げたらやはりせんぱいだった。
「せんぱい! 空から女の子が、じゃない首長竜が!」
「ここぞとばかりにそのセリフが出てくるなら、頭は大丈夫だな。いや、むしろ大丈夫じゃないのか」
「たんこぶめちゃめちゃいたいです……」
 痛みに導かれてそっとひたいに手をふれると、そこに小高い丘。熱をもっている。
「せんぱい、氷ー」
「はいはい保健室な」
 あたりを見回すと、そこは階段の踊り場だった。ちなみにここから十数段階段をのぼれば美術室だ。なんてこと、道なかばにもほどがある。
「おまえ、テノチーって叫んだろ。丸ぎこえだった」
 せんぱいがわたしを助け起こしながら言う。うそだ、まったくおぼえがない。せんぱいにならともかく美術部員以外に聞かれていたらと思うとはずかしい。これも天罰か。
 と、立ち上がって気づいた。せんぱいが小脇になにかかかえている。
「テノチー!」
 恥ずかしい、と思った矢先にまた叫んでしまった。せんぱいがかかえているのは、たしかに首長竜の彫刻だ。
 ただ、違和感がある。なにかがちがう。
 階段の暗がりのせいかと思った。けれど、それはたしかに、
「色、おかしくないですか」
「そうだな、城之崎、いやドドメ色マイスターキノサキ」
 あろうことか、首長竜はドドメ色をしていた。常の白磁の色はどこにも見つからなかった。

 保健室で氷をもらい、部室にもどりながら聞いたせんぱい仮説によると、テノチーがドドメ色になったのはわたしのせいらしい。反論する気はない。頭にぶつかる寸前に見た首長竜は白かった。だからぶつかったわたしの頭の中がドドメ色だったせいなのだ。
 そんな女子高生いやだ。
「いやなのはおまえだけじゃないぞ、なあテノチー」
 せんぱいが両手で首長竜を持ち上げる。テノチーは、首をだらんと下げてわたしと目を合わせようとしない。と思ったら、せんぱいに答えて悲しげに鳴いた。
「ご、ごめん……せんぱい、どうしたら元に戻るかな」
「さあ」
 無情にもせんぱいは肩をすくめるだけだった。
「つめたい」
「そりゃあドドメ色マイスターキノサキ、先輩の言うことを無視して逃げた後輩に同情の余地があるか」
 息がつまった。ごもっとも。保健室につれてきてくださったことだけでも感謝しないと。
 せんぱいはひえびえと笑った。
「おまえの頭の中のせいでドドメ色になったんなら、ドドメ色を払拭してもう一回頭にぶつけりゃいいと思うけど」
「そうだ! せんぱいの頭にぶつければ」
 ことばは半ばで出てこなくなった。冗談じゃなく、せんぱいの目がぎらりと光った。ふざけんなってとこだろう、言いたいのは。
「でも、ドドメ色を払拭できる気なんて正直しません! まったくもって!」
「とりあえずドドメ色のパレット洗え。形から入ってみ」
 大人しくうなずく。当然だ、そのことばから逃げてこうなっているんだから。

 そして美術室にもどってきたら、お客さんがいた。
 明治時代のひとだから、ちょんまげに和服。百八十センチの長身が、蛍光灯ににぶく輝いている。石持葛西そのひとだった。もっとも銅像だけど。いつも生徒玄関から動かないのに、どうしてここに。
 ふりむいたカサイ先生が口をひらく。りりしい顔の、ひきしまった口から発せられるのは、時代を感じさせる重々しい声、
「おじゃましてますぅ、テノチーに会いに来たんだけどいないから、ここにいれば戻ってくるかなって思ってェ」
 ではなかった。男のひとが無理矢理高い声をだしたときのひしゃげた音声が、美術室に響きわたる。ごく端的に言うなればおかまさん。なんてこと、カサイ先生はおかまさんだったのだ……!
「念のために言っておくけどな、史実の石持葛西はこうじゃなかったと思う」
 なんだ、そうか。銅像と本人はちがう。それにしたって、銅像の顔は表情がほとんど動かない。それで口から出てくるのが、
「テノチー!」
 この明るい声。外見と中身がへだたりすぎだ。
 せんぱいの手の中の彫刻を見て、カサイ先生は驚きの声を漏らした。
「まあひどい! それ、何色?」
 テノチーだけじゃなく、わたしの心にまで会心の一撃だった。なにか鋭いもので胸をつらぬかれ、地にぬいとめられたような心地がする。と思ったらほんとうにわたしは床に倒れ伏していた。氷の袋が地に落ちる。
「いくら自分の色がわからないからって、やけになってそんな色になることないじゃない!」
「先生、こいつ今日も相談に行ってましたか」
「エエ。あいかわらず自分は何者かで悩んでて。今日は体の色のこと気にしてた」
 せんぱいのことばがよみがえる。恐竜は現代では自分がわからない生き物。そんな悩めるテノチーに、わたしはなんてことを! ほんとうの皮膚の色はだれも知らない。それをよりによって何色でもない色に染めあげてしまうなんて!
「わああああ、ごめんなさいいい」
「……。この子、どうしたの?」
「テノチーの色、たぶんこいつのせいなんです」
「うっうっ、ごめんなさい。わたしがドドメ色マイスターだから」
「おうい城之崎戻ってこい。反省したのはよくわかった。おれは言い過ぎた、すまん」
「だってわたしにはえらべないんだものっ、緑も黄色も紫もみんな好きだから、パレットに出しちゃうんだもの!」
「城之崎ー、泣かないでくれよ、すまんかった」
 せんぱいがひざまづいて背中をさすってくれるのがわかる。けれど、せきをきったようにことばがあふれる。頭をぶつけたときの白昼夢のこと。昔からなにもえらべない子どもで、周りをいらつかせてきたこと。みんな話していた。
「ごめんなさい、優柔不断でごめんなさいていうか生きててごめんなさい!」
 視界の外でせんぱいがおろおろしている。わたしの声だけが美術室に響く。いけない、こんなことでまわりに迷惑かけてちゃいけないんだ。けれど、じわりじわりと涙はにじむ。
「キノサキちゃん」
 と、先ほどまでより近くで、カサイ先生の声がした。
 そして次にカサイ先生の発したことばが、わたしの濡れた顔を上げさせた。
 首が痛くなるくらい見上げないと、カサイ先生の顔は見えなかった。わたしの目の前に、なんとも頼もしい背の高い銅像が立っている。ほうけた顔をしていたと思う。
 先生、曰く。
「なにもえらべないってことは、すべてえらんでるってことなのよ」
 パラドックスにみちたことばに、思考はうまくはたらかない。
「キノサキちゃんは、選択肢が目の前に広がったとき、全部すてきだなって思って全部えらぼうとしてるのよ。だから決められないワケ」
 ほんとうに、そうだろうか。
 いや、そんなことない。そんなたいそうなこと、してない。だってわたしはたくさんのひとを不愉快にさせてきた。
 顔色でわたしの心うちを見てとったのだろう。カサイ先生は、こう聞いた。
「じゃあアナタの好きな色って、なにかしら」
 とっさに答えが出なかった。
 問いの瞬間、思考が色の洪水であふれていた。春の新芽の淡い黄緑。青空に映えるサルスベリの上品なピンク。熟れた柿の橙。エメラルドを溶かしたメロンソーダの緑。真冬、白い世界にうかびあがるほほの赤さ……。
 そのどれもが、いとおしい。
「……ぜんぶ、かもしれない」
 こう答えるしかなかった。
「ね、好きだからえらべないの! それってちょっとステキじゃない? 世界を丸ごと愛してるみたいで!」
 カサイ先生はあいかわらずの仏頂面なのに、前向きなことばには力があった。自分探しの首長竜が相談しにいきたくなるわけだ。わたしの涙がひいている。
 じっと見上げていると、カサイ先生がうなずいた。ぎぎ、ときしむ音さえしそうなぎこちない動作で。
「おれもそう思う」
 ふいに横からせんぱいの声。視線があうと、せんぱいはちょっと照れくさそうにしながら、
「城之崎の絵は、どんな色も見捨てないなって。紫と黄色と緑とか、下手したら悪趣味な色使いがきれいなんだ。それは城之崎が、ほんとにその色が好きだからだと思う。うん――」
 それでもわたしを見て、言った。
「おれ、城之崎の絵が好きだよ」
 とくん、とくんと、胸の奥からひろがってくるなにかがある。ほんとうに。ほんとうに、わたしはわたしで。
 なにもえらべないわたしで、いいの?
 とまどい気味にせんぱいを、カサイ先生を見回す。カサイ先生は苦笑まじりに言った。
「テノチーにしろキノサキちゃんにしろ、悩みすぎ。何色でもないってのは何色でもあるってことよ? 夢があるじゃない」
 ふいに言われて、テノチーがびくりと身をふるわせる。カサイ先生はあたりを見回して、それを見つけるとうっとりと言った。
「ほら、ステキじゃない、テノチー」
 ぎこちない動作で指さされたさき。そこにあったのは。
 そこにあったのは、わたしの描いた油絵だった。
 三ヶ月前、パレットをドドメ色にしながら描いた極彩色の花々。赤も緑も紫も黄色も青も、ピンクも水色も橙も、みんないとおしいからみんなえらんだ。
「何色でもないって、ああいうことよ」
 小さな首長竜はじっとカサイ先生をながめていたけれど、やがてゆっくりとカンバスのまえに歩いていった。長い首をゆらりと高くあげて、身の丈の数倍ある絵を見た。
 ややあって、竜が一声鳴く。鼓膜をたしかにふるわせた、複雑なひびきのそれが、はじまりの合図だった。
 色がはじけた。
 テノチティトランの肌から、色が浮き上がる。混ざりあってドドメ色だったそれは、元の赤に橙に青に分かれて、宙にのぼる。カンバスの花とおなじ色が、宙に一瞬とどまっては消えた。湧き上がる色の群れは、首長竜をすっかりつつむ噴水。どこまでも、どこまでも広がっていく力を感じた。わたしはまちがいではなくとも、せまいものの見方をしていたのかもしれない……。
 噴水が小さくなり、やがてかききえた。
 首長竜はもとの白に戻っていた。
「よかったな」
 せんぱいが言った。
「う、うええ」
「は、泣くのかまた!?」
 ぼろり、と涙の大きなつぶがこぼれた。それを皮切りに、透明なしずくがつぎつぎ床に落ちる。
 うれし泣きねえ、というカサイ先生の声が聞こえた。うれしいなんてものじゃなかった。でもそれをことばにすれば、たちまち陳腐になってしまう気がして、かろうじてこれだけ言った。
「ど、ドドメ色ばんざい……」
「……城之崎、パレットは洗えよ……」

 首長竜は何色でもない。自分の色を探して旅に出る。
 けれど探しものは、いつも彼とともにある。


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