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B09  蝶の記憶

 暗闇の涼しさが一層恋しくなった夏の夜、突然彼女から電話があった。
「明日、遊びに行ってもいい?」
「え?」
「久しぶりで会いたいの。話があるんだ」
 彼女とは、親友といっていい付き合いだった。だが、それも数年前の同級生の頃までの
ことだ。道を違えた今では、隣町に住んでいる彼女と顔を合わせることもなく、人づてに
消息を聞くばかりだった。彼女からの音信といえば、遅れてくる暑中見舞いと年賀状。
 それでも、受話器越しに響いてきた明るい声色は、すぐにわたしを懐かしい時間に引き
戻した。会いたい、いや会うべきだという想いが、しまいこんでいた胸の底から勃然と湧
き起こる。
 わたしの態度になにかを悟ったのか、隣で洗濯物を畳む母が、もの言いたげな目付きで
こちらを窺ってきた。体の向きを変え、受話器を手の平でくるんで囁く。
「いいよ。何時にくる?」
「お昼がいいな。二時すぎにどう?」
「わかった。じゃ、明日ね」
 母の視線を撥ね退けるように、わたしはことさら明るく告げた。受話器を置いた手が、
かすかに震える。
 だいじょうぶ、だいじょうぶだ。誰でもないなにかに呪文のように祈る。
 それでも、久しぶりの親友との再会の嬉しさの陰に暗いものが漂っていることは、どん
なに楽観的になっても拭い去れはしなかった。

 降り注ぐ夏の陽射しのすき間を縫うように、彼女はやってきた。
「久しぶり。暑いね」
 そう言って彼女は、化粧気のない顔の汗をハンカチで拭った。
 以前会ったときよりも髪が伸びている。くせのない胸先までの長い髪を、彼女は白いカ
チューシャで止めて下ろしていた。白いTシャツに黒のジャンパースカート。シンプルで
清潔な美しさは、いかにも彼女らしい。
「元気だった?」
「うん、そっちこそ。中、入ってよ」
 彼女は、おじゃまします、と声をかけて家にあがった。先程からしきりとこちらの様子
を推し測っていた母が、如才無くあらわれて話しかける。
「元気にしてた?」
「はい。お久しぶりです」
 数年ぶりの対面に途惑ったか、彼女の笑顔が自然と固くなった。わたしは頭を下げる彼
女をうながし、母の目を避けて応接間に案内した。
「変わらないねぇ」
 懐かしげに云い、彼女はかつて訪れたときと同じように、椅子ではなく毛足の粗いラグ
の上に座り込む。
 一気に時が戻ってきたかような光景に、わたしは知らず微笑んだ。台所で冷えた麦茶を
グラスに注ぎ、持っていく。
「ありがとう」
 わたしを見上げ、彼女がにっこりと微笑んだ。馴染み深い笑顔。だが、わたしの視線は
別のところに注がれていた。
 わたしはそこから眼を離さないまま、彼女の向かいに盆を置いて座った。
「……妊娠、してるんだ?」
 彼女は細い顎を持ち上げて、くいっと麦茶を飲み干すと、丸く突き出たお腹を抱えるよ
うに座り直した。
「もう八ヵ月。あんまり目立たないでしょ?」
 台所で聞き耳を立てているだろう母の気配を痛いほど感じながら、わたしは呆然と首を
縦に振った。
 会わなかった数年に聞かされた様々な事柄が、頭の中をかけめぐる。不倫、略奪、裏切
り、未婚の母。噂話でドラマのように誇張された浅い言葉の数々が、急に重い質感をもっ
て突き刺さる。衝撃というものが肉体的な痛みを伴うものだと、わたしはこのとき初めて
知らされた。
「いつ?」
 きちんとした形を為さない問いが、口をついて出る。だが彼女は、すべてを心得ている
様子で教えた。
「十月よ。末だって。初産だから分からないけどね」
 時間。眼には見えない、誰にも平等であるはずのこの巨大な怪物が、わたしたちの間に
容赦なく立ちはだかっていた。
 彼女は黙って、どこか慰めるような眼差しをわたしに向けた。まっしろな卵形の顔立ち、
薄い三日月型の眉。切れ長の黒目がちの瞳は、揺るぎない芯の強さを秘めている。
 よく見知ったその顔は本当に昔のままで、暗さなど何ひとつ感じさせなかった。強張っ
ていたわたしの頬が、ゆっくりと弛緩する。ようやくはっきりと、偽りのない声が出た。
「おめでとう。頑張ってね」
「……ありがとう」
 溜めこんでいた息を吐き出し、彼女は充ち足りた笑顔を浮かべた。大きなお腹を包むよ
うに白い両手を置くと、低い調子で囁く。
「ゆう、よ」
 一瞬わたしは何のことだか分からなかった。が、彼女の顔に浮かんだ母親の表情に気付
いて悟った。秘密なのだというように、にっこりと彼女が頷く。
 わたしは、丸い、思ったよりも固く張った彼女のお腹にそっと両手を当てた。目を伏せ、
そこから『ゆう』が飛び出してくる様子を思い描いてみる。かそけく消える幻のようで、
想像もつかないくらい異様で、胸を突き上げるほどいとおしい未知なるもの。
「ゆう。早く会いにおいで……」
 窓の外では、暴れ狂う光と熱がぎちぎちと渦を巻き、彼女の好きな紫苑が蕾をつけた姿
をほそぼそと揺らしていた。そのあいだを大きな揚羽蝶が一匹、音もなく舞う。
 うるさいほどの白熱に満ちた夏景色を冷ます、ひとひらの闇。
 幻想的な青いひらめきを纏うそれは、時も熱も惑いも超えた真実が、形となってそこに
舞い降りてきたようだった。

 わたしが『ゆう』と会えたのは、長い長い夏がやっと終わりを告げる頃だった。
 『ゆう』はまるまると肥った赤ん坊で、毛のない眉をしかめ、小さな口をへの字に曲げ
て握った拳を突き上げていた。運命を呪っているのか、まだ緩みきらない陽射しに怒って
いたのかは分からない。『ゆう』の感情を受け止めてくれるものは、もうどこにもいなかっ
た。
 お棺の中の彼女の顔は覚えていない。わたしにとって彼女の最後は、麦茶をおいしそう
に飲み、生まれてくる子のことを話した姿。それですべてだった。
 彼女が何を思い、どう考え、どうしようとしていたのか。その場で囁かれたことは噂ば
かりで真実はどこにもなかった。真実は、突然神さまの手に攫われた彼女が、胸に収めた
まま天に持っていってしまった。
 わたしは途中手折ってきた紫苑の花を一本、棺の中に入れ、手を合わせた。涙はなかっ
た。少なくとも彼女が後悔していなかったことを、わたしは知っていたから。
 どこからか一匹の揚羽蝶が飛んできて、棺の縁に止まる。蝶は、青く光る羽根を何度か
閉じたり開いたりしたのち、再び空へと飛び去っていった。
 ――彼女は、この蝶の美しさにちゃんと気付けていたのだろうか。
 気付いていたのだ。そう信じたかった。まだ終わりの見えないわたしのこの先と、終わ
ってしまった彼女のこれまでが等しい価値を持つものであることを、この蝶にだけは伝え
たいと無性に願った。
 空に還ってゆく、ほんの一瞬の青のひらめき。
 長い時の中でそれは本当にわずかで、何の変哲もない出来事にすぎないのだろう。それ
でもその光景は、いつまでもわたしの記憶に鮮烈なままこびりついて、離れることはなか
った。
 怒っているような、哀しんでいるようなしかめ面の赤ん坊と、命を撒き散らしながら飛
びたった青い闇色の蝶。
 それはとても痛くて、かけがえのない若い日の記憶だった。


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