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B07  月の海から

 ある日、空から人魚が落ちてきた。
 俺の足元に転がっていた女の子。
 それが人魚の「珊瑚《さんご》」だった。

「竹井さーん、そっちお願い」
「はーい」
 俺は箒の先をずるずると引きずりながら、アパートの裏庭までのたのたと歩いていった。
 巨大な台風が日本列島を襲った翌朝の事だった。外の様子を窺おうとドアから顔を出した時に、隣の部屋に住む大家さんと眼がばっちり合ってしまったのが運の尽き。アパート周りの掃除に付き合わされる羽目になった。
 うちの大家さんはトシの割に大柄で、目鼻立ちのはっきりした顔のせいか、その深い色の瞳にじっと見つめられると妙に迫力を感じる。老人だからというせいもあるが、彼女の頼み事は簡単に断れるもんじゃない。このアパートの数少ない住人の中でも、俺は頻繁にお手伝い要員にさせられてしまっていた。
 倒れた自転車を立て直したり、大家さんが丹精込めて育てていた植物の鉢を拾い集めたり、砂でざらざらになった廊下を掃いたりする。次は裏庭だ。そろそろこの辺で勘弁してくれないかなぁと思った時、「それ」は来た。
 何かが急降下で迫ってくる。
 気配を感じて空を見上げたところ、大きな棒状の物が降って来た。俺はそれを避けようとしたが失敗した。びたんっ! という音と共に「それ」は上体を反らしていた俺の胸に勢いよくぶつかり、バウンドして地面に落ちた。同時に、俺もよろけて尻もちをつく。
 金、茜、エメラルド、青――色と言う色がキラキラした輝きをふりまきながら俺の目の間に散らばる。その中に垣間見える少女の顔。
 ずさっと落ちたそれに、俺は目を見張った。そこにいたのは、あどけなさの残る少女の姿をした上半身に、魚の下半身を持つもの。「人魚」だった。
「竹井さん? どうしたの」
 物音を聞きつけて大家さんがこちらにやって来た。俺の側に落ちていたものを見て、はっと息をのむ。俺達はしばらくの間呆然として動けなかった。我に返ったのは、人魚がうめき声を上げて体をよじらせた瞬間。
「あなた大丈夫? しっかりしなさい」
 大家さんが人魚の体をゆすると、生気を失った青白い頬が見えた。これはまずいかも。
「竹井さん、この子をうちに運んで」
「あっ、は、はいっ」
 同じことを考えていたのか、大家さんの声も切羽詰まっていた。
 俺は人魚を抱き抱えると、裏庭の掃き出し窓から大家さんの部屋に入り、和室の床に彼女を横たえた。畳の上に、金色と茜色の小波が立った。彼女の長い髪の毛は、緩いウェーブの見事なストロベリーブロンドだった。
 大家さんが濡らしたおしぼりを持ってきて、泥で薄汚れた頬を拭く。
「おい、大丈夫か? どっか痛いところないか?」
 俺が軽く肩に触れて体を揺すぶると、少女がぱちんと目を開けた。澄み切った空のような鮮やかな青い色の瞳が、じっと俺を見つめる。
 かさかさに乾燥した唇が微かに開き、何かの音を発しようとした時、俺は全身から力が抜けていくのを感じた。
 まるでポンプで体中の水が吸い出されるようだと思った瞬間、俺は気を失っていた。

 目を覚ますと、少女が心配そうに俺の顔をのぞき込んでいた。
『大丈夫?』
 不安そうな声が直接脳内に響く。これ、テレパシーって奴?
「大丈夫……みたいだ。あんたは?」
『大丈夫。あなたのセイキ、珊瑚が吸った。ごめんなさい』
 珊瑚って言うのか、この子。彼女の頬には赤みが差し、唇もふっくらとした桜色になっている。元気になって良かった。俺は起きあがろうとしたが、体に力が入らないので止めた。今は無理しない方が良さそうだ。人魚って確か、人間の精を吸うんだっけ? いやあれは吸血鬼か何か別のだったか?
『さっきは弱ってたから! ホンノウなの! 怖いこと考えないで』
 あ、読まれた。むっとした顔も可愛い。
「大家さんは?」
『さっきの女の人? ご飯作るって』
 言われてみれば、台所からトントンと包丁で何かを切る音が聞こえてくる。そういや、ここは大家さんの部屋だった。いきなりぶっ倒れて驚かせてしまったな。
 驚かせたと言えば、この子の事もそうか。自分のせいで俺が倒れてしまった事を気に病んでいるのか、青い瞳に陰りが見えた。
 どれ、いっちょやってみるか。
 俺は両手の平をクロスさせ、左右の親指同士を第一関節でひっかけた。
「鳩」
 親指以外の指をパタパタと羽ばたかせる。珊瑚は瞳をまん丸にした。口もぽかんと半開きになっている。次に、絡めた親指を離して左右の手をスライドさせた。
「カニ」
 珊瑚が破顔一笑した。俺が何をしているか、理解したようだ。
 犬、狐、リス、カエル、と次々に形態を変える俺の両手を、彼女は興味深げに見ていた。
「やってみるか?」
『うんっ』
 珊瑚は瞳をきらきらさせながら、ぎこちなく手を動かした。
 鳩、カニ、犬、狐。ここまでは順調。
 しかし、リスとカエルは難しすぎるのか、彼女は悪戦苦闘していた。
『できない~!』
「あはは。それは子供にはまだ無理かな。少し休憩しような」
 珊瑚は不満そうだったが、渋々手を下ろした。これで少しは気が紛れただろうか。
「そーいや、どうして空から落ちてきたんだ? 台風でどこかの海から飛ばされてきた、とか」
『海から落ちたの』
 細い指がまっすぐ天井を指す。えっ、空?と思った瞬間、少女の体はふわりと宙に浮いた。エメラルド色の魚の尾びれが俺の頬をくすぐる。6畳の和室の空間が海に替わり、俺の体の下の畳が砂で敷き詰められた海底になったような錯覚に陥った。
『お空の海から、落ちちゃったの』
 呆然と天井を見つめていると、台所から味噌汁のいい匂いが漂ってきた。

 大家さんが、掃除を手伝ってくれたお礼にと朝食をご馳走してくれた。それはありがたいが、今度は大学の講義に遅刻するでしょと部屋から俺を追い出した。
「この子の事は心配しなくていいから。私に任せて、しっかり勉強してきなさい」
 ウインク一つでドアを鼻先で閉められてしまった。ご無体な。
 台風一過の次は空から人魚落下という異常事態が連続して起きたと言うのに、勉強に身が入る訳がない。その日の講義が終わると、俺は友人達との挨拶もそこそこに大学からダッシュで帰ってきてしまった。
 部屋のドアを叩くと、ややあってから施錠が外されてドアが開き、大家さんが顔をのぞかせた。
「お帰り。ずいぶん早いね」
「さっ、珊瑚は?!」
 全速力で走ってきたものだから、呼吸が荒い。別に怪しい奴じゃありませんと心の中で言い訳してると、大家さんの背後から珊瑚がひょいと姿を現した。
 彼女は浴衣を着ていた。桜柄の生地に、ハーフアップにしたストロベリーブロンドの髪の毛が映えている。浴衣の裾から人魚の尻尾が見えるのがまた何ともいい。
「私が娘時分に着ていたものだよ。古臭くて申し訳ないんだけどね」
 大家さんは照れたように言った。浴衣はやや色あせてはいたが、ちゃんと丁寧に保管されていたらしく、きれいな状態だった。
 そうか、この人にも若い頃があったんだ。当たり前だがちょっと信じられない。昔は可愛かったのかもしれないが、今は見る影もないデ――いや何でもない。
「大家さんって、ご両親のどちらかがロシアの人でしたっけ」
「何なの、藪から棒に」
「ほら、あっちの人って、子供の頃は妖精みたいに可愛いのに、年を取るとものすごいことに――うわっぷ!」
「全く。とんだ無礼者だね、お前さんは」
 大家さんに無理やり頭を押さえつけられてジタバタしていると、珊瑚がクスクス笑っていた。
 元気を取り戻した珊瑚は、日が暮れるとすぐにでも帰ろうとした。だが、彼女曰く「インリョクが足りない」らしく、何度試みても一定の高さより上には進めずに、途方に暮れた顔で俺と大家さんの元に降りてきた。
「多分、満月になれば帰れるんじゃないかしら」
『……そうかも』
 頑張りすぎて疲れたせいもあるのか、珊瑚は自信がなさそうだ。
「あんた、月の海から来た人魚かもね」
「へぇ。ずいぶんロマンチックな事言うんですね、大家さん――ぐはぁっ!」
「ほんっとに失礼だね。これでも旦那とは大恋愛だったんだよ」
 大家さんの脇の下に首をがっちりホールドされ、拳骨で頭をグリグリやられながら、俺は悶絶しかけていた。
 月の海を泳ぐ人魚、かぁ。確かに空の上だし。
 あのストロベリーブロンドの髪の色は、夜空にも月光にもよく映えるだろう。珊瑚にはぴったりのイメージだ。

 あれから三日後。バイト先から帰ってきた瞬間、満面の笑みを浮かべた珊瑚がアパートの敷地内から道路に飛び出してきた。
『ワタルっ、おかえりーっ!』
 うわっ、危ない。
 慌てて抱きとめると、珊瑚の細い腕が俺の首に回された。
「こら、急に飛び出してきたら危ないだろ!」
『危なくないもん。ワタルしかいないの、珊瑚、分かってたもん』
 珊瑚はえっへん、と胸を張った。便利だな、人魚のテレパシーとやらは。
 部屋のドアの鍵を開けるまで、珊瑚はずっと俺の周囲をふわふわすいすいと泳ぎ回っていた。
『ワタルっ、遊ぼう!』
「俺はバイトで疲れてるんですけど……」
『オーヤさんたら、全然外に出してくれないの。つまんない』
 そりゃそうだ。空中を泳ぐ人魚なんて、人に見られたら大騒ぎになるに決まっている。
「大家さんは?」
『お風呂に入ってる』
 ……出たら珊瑚がいないのに気付いて、心配するだろうな。後で連絡せねば。俺は人目がないのを確認してから、珊瑚を部屋に招き入れた。
「で、何して遊ぶんだ?」
『リスとカエル!』
 はいはい、指遊びね。
「そーいや、珊瑚はカエルや犬を見たことがあるのか?」
『ホンモノは見たことない。姉様の水晶玉で見せてもらった』
「お姉さんがいるのか。で、家族と一緒に月の海にいた、と」
 珊瑚がこくんとうなずく。
「家族は心配しているだろうな。早く帰れるといいな」
『大丈夫だよ。満月になってインリョクが増えたら、月の海が開くから。姉様達、きっと迎えに来てくれるって』
「そうか。今夜は上弦の月が出ていたから、満月までは一週間ってとこだな」
『オーヤさんもそう言ってた。だからおとなしくしてなさいって』
 ……え?
 ちょっと待て。何で大家さんは月の海が開くって断言したんだ?
 幼い珊瑚を安心させるために……?
 珊瑚に問いただそうとしたその時、外からどすどすと凄まじい地響きが聞こえてきた。それから、予想通りに玄関のドアを叩く激しい音が。
「ちょっと、竹井さん! あの子、そこにいるんでしょ?!」
 俺と珊瑚がきっちりとお叱りを受けたのは言うまでもない。

 それからの一週間は、夜空を見上げて月の様子を窺う日々だった。
 俺は毎日学校やバイトの帰りに大家さんの部屋に寄って、珊瑚の遊び相手になった。昼間の珊瑚は、テレビを見たりおはじきをしたりして、暇つぶししているようだった。俺の部屋に来たらゲームくらいさせてやるんだけど、それは大家さんが許してくれなかった。彼女は珊瑚をあまり外に出したくないようだった。
 日が暮れると、人目がないのを見計らってから、珊瑚を外に連れ出して空中遊泳させる。
 珊瑚が夜空を泳ぎ回ると、街灯や月光に照らされて髪や鱗がキラキラと光った。
『インリョク、段々強くなってる。感じるよ!』
 珊瑚の無邪気な笑顔を見ていると、複雑な気分になった。
 大家さんの部屋で遊ぶ時は、もっと一緒にいたいと思う。
 でも、夜の空間を泳ぐ珊瑚を見ていると、早く帰してやりたいと思う。珊瑚は人の気配を感じると、慌てて物陰に隠れるので、少し可哀想になった。もっと自由にのびのびと泳がせてやりたいのに。
「あんまり情を移すんじゃないよ」
 ある時、大家さんがぼそりと呟くように言った。それは俺もわかっている。
 大家さんには聞きたいことがたくさんあったが、聞けなかった。日中俺は大学に行ってるし、帰ってからは珊瑚がべったり俺にひっついているから、大家さんと二人きりになれない。
 でも、珊瑚が無事に帰れたのなら。
 俺がわざわざ大家さんに問い質す必要なんて、ないのかもしれなかった。

 一週間はあっという間だ。とうとう満月の日になった。
 その晩は月がやけに大きく見えた。
 俺と大家さんは、少しでも空に近い方が帰りやすかろうという理由で、珊瑚を小高い丘の上の神社に連れて行った。階段を一歩ずつ上るのにつれ、俺に抱きかかえられた珊瑚がそわそわし始める。
『姉様だ……!』
 本殿が見えるやいなや、珊瑚は大きく身をよじって、俺の腕の中から抜け出した。
 俺達が見上げた空には、大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。見つめると目が痛くなるほどの眩しい黄色。その中に動き回る影が見て取れた。
 人魚だ。しかもたくさんいる。珊瑚はその中にまっしぐらに泳いでいった。人魚たちも珊瑚に向かって距離を縮めてくる。やがて両者はぶつかり合い、空中でじゃれあい始めた。
 珊瑚が笑ってる。人魚たちも喜んでいるようだ。
 何かに弾かれたかのように、珊瑚が人魚の群れから離れた。まっすぐにこっちに向かってくる。
『オーヤさん、浴衣』
 珊瑚は帯をほどいて浴衣を脱ぐと、簡単にまとめて大家さんに手渡した。
『助けてくれてありがとう。たくさんたくさん、ありがとう』
「いいんだよ。元気でね」
『ワタルもありがとう』
 珊瑚は俺の横にぴったりひっつくと、両手を自分の胸のところで合わせた。ぎこちない手つきでリスの形を作る。それから指を震わせながら、カエルの形を。どちらもほとんど形になっていなかったけれど。
 俺は胸が詰まってしまって、何も言えなかった。珊瑚は寂しそうな顔で俺をじっと見つめていたが、やがて意を決したように宙に身を躍らせた。
 胸元で左右の手のひらを重ね合わせ、親指同士をひっかける。残った4本の指をパタパタと動かした。
 俺はうなずくと、震える手で同じ形を作った。
 珊瑚が微笑む。俺も微笑んでみせた。
「珊瑚。元気でな」
『うん。ワタルもね』
 手を伸ばして珊瑚の頭を撫でてやると、珊瑚は嬉しそうな、寂しそうな、複雑な表情をした。
 ばいばい。
 どちらからともなく手を振る。珊瑚は自然に俺達から離れていき、そして俺達を見下ろせる程の高さまで泳ぐと、キッと空を見上げた。
 珊瑚は振りかえらなかった。ただひたすらにまっすぐ、人魚の群れの中へと向かって行く。やがて珊瑚が合流すると、人魚たちも体の向きを変えて、帰っていった。
 まぶしい黄金色の光を放つ、月の海の中へと。
 俺達はそれをしばらくの間、黙って見つめていた。
「これでいいんだよ」
 ややあって、大家さんがぽつりとつぶやいた。
「人魚とはね、ずっと一緒にいない方がいいんだよ」
「……人間の精を吸ってしまうから?」
「そうだよ。悪気はなくてもね」
 大家さんが鼻をすすりあげた。
「私が旦那と一緒にいられたのはほんの数年だった……」
 大家さんは涙ぐんでいた。
 夜空の色を映したような、深い藍色の瞳で。


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