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B02  アオの空

 小さな窓の外からは、朝を告げるように鳥の鳴き声がした。
「おはよう、アオ」
 カーテンを開けながら、お嬢さんはにっこりと微笑んだ。その瞳に、光はない。お嬢さんの瞳が、僕の姿や空の美しさを映すことはない。それでもお嬢さんは、住み慣れたこの家の中でどこにもぶつからずに歩きまわっている。その様子からは、目が見えないなんて想像できないくらいだ。
 僕はお嬢さんの周りをぐるりと飛んだあとで、肩にちょこんととまる。
「アオは甘えん坊ね」
 くすくすと笑いながらお嬢さんは言う。アオというのはお嬢さんと先生が僕にくれた名前。

 僕は、まだ空も飛べない赤ん坊の頃に巣から落ちてしまった。落ちた子供を親は助けてくれない。ひとりぼっちで途方に暮れていたところを、お嬢さんはそっと手を差し伸べて、あたたかい居場所をくれた。
 それからお嬢さんのところへやって来た先生は、僕が巣から落ちた時にできた怪我を治してくれた。先生は村で唯一の人間のお医者様で、お嬢さんのことを気に掛けてくれる良い人だ。他の村人は皆怖い目でお嬢さんを見ているので僕は嫌いだった。目が見えないのに、見えている人と同じように背筋をぴんと伸ばして淀みなく歩くお嬢さんのことを気味悪がり、お嬢さんが小さな庭で薬草を育てて薬を作っていると毒だ呪いだと決めつける。村人はお嬢さんのことを魔女だと言って蔑んでいた。
 お嬢さんは優しいから、村人たちの冷たい視線に気づいていないふりをする。どんなに嫌そうな顔をされてもにっこりと笑って挨拶するんだ。
 思い出すとムカムカして、僕は自分の気持ちを訴えるようにお嬢さんの髪の一房をくちばしでくわえてひっぱると、お嬢さんはきゃっと小さく悲鳴を上げたあとで困ったように笑った。
「どうしたの、アオ。お腹でもへったの?」
 あまり強くひっぱらなかったから、痛くなかったのだろう。もちろん僕がお嬢さんが痛がるようなことをするはずがない。お嬢さんは見当違いの解釈をして僕のごはんを用意し始めてしまう。そして僕の餌入れを満杯にして、ふと顔を上げた。
「ああ、先生がいらしたわ」
 お嬢さんは玄関へと向かい、外側から扉が開く前に開けてしまう。僕はせっかくだからお嬢さんの用意してくれた餌を食べることにした。
「おおっと。今日もバレてしまったな。こんにちは、マリア」
「ふふ、足音で分かりますよ。先生。どうぞ」
 首の後ろを掻きながら家へと入ってくる、無精ひげを生やした先生は僕の姿を見ると手を振ってくる。応えるように鳴くと、嬉しそうに笑った。
「アオはまるで人の言っていることが分かるみたいだ。賢い鳥だなぁ」
 えっへん、と僕は胸を張る。僕が褒められるとお嬢さんは嬉しそうにする。それが僕には嬉しい。
「そうだマリア、美味しいリンゴをもらったんだ」
 そう言いながら先生は紙袋に入ったリンゴをお嬢さんに渡す。けっこうな量だ。
「こんなに? 私一人じゃ食べきれないわ」
「なに、アオに食わせればいいさ」
「まぁ、アオは小鳥なのに」
 先生の冗談にお嬢さんはくすくすと肩を揺らして笑う。先生が来ている間、お嬢さんはとても嬉しそうだ。仲間に入れてもらおうとお嬢さんの肩にとまる。
「ほら、アオは食べる気まんまんみたいだぞ」
「あら本当に?」
 別にそういうつもりじゃなかったのに、先生とお嬢さんは僕が食い意地がはっていると思ったらしい。……ちょっと心外だ。


 次の日は、家じゅうに甘いアップルパイの匂いがたちこめていた。お嬢さんの肩にとまると、その髪からもシナモンの香りがする。
「あら、先生がいらしたわ」
 ぱっとお嬢さんが顔をあげて、嬉しそうに笑う。焼けたばかりのアップルパイを置いて、お嬢さんは扉を開けた。毎日のように僕らの様子を見にやってくる、ちょっと冴えない先生の姿があった。
「いらっしゃい、先生」
 ふわりとお嬢さんが微笑むと、先生は「いつも勝てないなぁ」と苦笑する。どんなに足音を忍ばせても、耳のいいお嬢さんには分かってしまうんだ。
「お邪魔するよ。良い匂いがするなぁ」
「アップルパイですよ。先生にいただいたリンゴで作ったんです。今、お茶淹れますね」
 既に準備していたんだろう、お嬢さんはすぐに熱い紅茶を先生の前に出して、ついでとばかりにアップルパイを一切れ紅茶の隣に並べた。
 二人の邪魔をしてはいけないな、と僕は鳴く。
「お散歩? 気をつけてね」
 お嬢さんはそう言って窓を開けてくれる。こんな狭い家の中しか知らないなんて可哀想、とお嬢さんは僕を外の世界へ出す。たぶん最初は、そのまま僕が帰って来ないようにと願ったんだろう。でも僕は賢い鳥で、そしてお嬢さんが大好きだった。きちんと家に戻ってくると、お嬢さんは「おかえりなさい」と泣きそうな顔で笑った。それ以来、僕にはお散歩の時間がある。近くの森をぐるりと回って、一時間もしないで帰ってくるのがお決まりだ。
 今頃は、二人で仲良くお茶でも飲んでいるのだろう。とりとめない会話をしながら。僕はそんな穏やかな時間が好きだ。お嬢さんも先生も優しい顔で笑っていて、部屋の中の空気はとても柔らかい。こんな時間がいつまでも続けばいい。そうすればお嬢さんはいつもしあわせそうに笑っていられるだろうから。
 それに、先生が帰ったあとに、寂しげな顔をしているお嬢さんのことを見なくても済むだろう。一瞬を永遠に、なんて望んでもそれは叶わない。僕はバカじゃないから分かる。けれどそれを望んでしまう時は、どうすればいいんだろうね。



 それは、お嬢さんもぐっすりと眠った真夜中だった。
 暗闇の中に人の気配を感じて、警戒するように円を描いて飛んだ。こんな時間に人間がやってくるわけがない。
「怯えるこたぁねぇよ」
 若い男の声に、警戒心を強めた。今お嬢さんを守るのは僕だけしかいない。声の聞こえた方へくちばしを鋭く突きだすと、小さい悲鳴があがる。鳥目だから標的がどこにいるのか定まらない。
「いって! おいやめろって!」
 うるさい! お嬢さんに何するつもりだ!
 何度もくちばしで男を刺していると、男はばたばたと抵抗するように手を大きく振った。
「そこのお嬢ちゃんには何もしねぇよ! 俺が用あるのはおまえだ!」
 ……僕?
「そうだおまえだ。だからやめろ」
 鳥に用があるなんて変な人間もいるなぁ、と思って、そして僕の声が通じていることに気がついた。どれだけお嬢さんや先生に話しかけても通じなかったはずなのに。
「よーし、大人しくなったな。よしよし。じゃあ話にうつるか」
 声からすると男は一安心したようだ。でも僕は警戒心を解いたわけじゃない。怪しい人間なのは変わらない。
 鳥と話すなんて頭おかしいんじゃないの?
 厭味のつもりでそう言った。
「そう言うな、これでも俺は神様のはしくれだぞー?」
 神様?
 首を傾げると、目の前の青年は胸を張って頷いたようだ。
「神様に見えないか? この神々しさとか」
 だって僕は鳥だもの。鳥は鳥目だもの。見えるわけがないじゃないか、と言うと男は「ああ」と納得したようだ。
「それじゃあ、これなら見えるか?」
 ふわ、と風を感じた瞬間に、男は淡い光を纏っていた。上から下まで黒い服を着ている男は、お世辞にも神様には見えない。
「今、神様に見えないって思ったろ。絶対に思ったろ」
 図星をつかれて思わず目をそらすと、男は苦笑した。
「まぁ、神様っていっても使いっぱしりだし。……それでだな、俺はおまえを連れに来たわけだ」
 男は急に顔を上げて本題に入った。
 ……はぁ?
 突然やってきて、何を言い出すんだろう。僕は首を傾げて男を見る。
 悪いけど、僕ここから離れるつもりはないよ。僕がいなくなったらお嬢さんは一人きりになっちゃうじゃないか。
 僕はお嬢さんのナイトなんだから、と早口で言い募ると男は悲しげな顔をした。
「……あのな。鳥と人間じゃあ、いつまでも一緒にはいられないんだぞ」
 諭すような声に、僕はむっとした。鳥だからってバカにするなよ。そんなことくらい分かってる。僕はお嬢さんの傍にいられるだけ傍にいるって決めたんだよ。
「……悪いな。今夜がその終わりなんだよ」
 男の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。そして、そのあとすぐにああ、今なんだ、と諦めにも似た感情が湧いた。そういえばお嬢さんに拾われて、何度も季節を繰り返した。僕の賢い頭でも覚えきれないくらいに、何度も何度も。
 それは、人間のお嬢さんにとっては短い時なのかもしれないけれど、鳥の僕には一生とも言える時だったのかもしれない。
「だから、俺がお迎えだ」
 そっと男が手を伸ばしてきて、僕の頭を優しく撫でた。その手がお嬢さんや先生の手に似ていた。死ぬことはあまり怖くなかったはずなのに、二人を思い出すと少しだけ、ほんの少しだけ、怖くなった。
「だけどまぁ、俺も神様のはしくれだ。一つだけ、願い事を叶えてやるよ」
 未練を残すことないようにな、と寂しげに笑いながらそう言う男の指先にとまって、羽を休める。
 ……願い事。
 それはいつでもたった一つで、いつも僕自身のことじゃなかった。僕が願うことなんて、本当にちっぽけでささやかだ。
 彼女がいつまでも元気で幸せであること。……それだけで、僕は幸せだから。
「……そりゃあ、ささやかで贅沢な願いごとだなぁ」
 彼は苦笑していた。けれどその顔はどこか優しくて、僕は少し誇らしげに笑う。
 ……叶えてくれるんでしょ?。
「ああ、叶えてやる」
 そう言うと男は眠るお嬢さんに歩み寄って、懐から小さな瓶を取り出した。瓶の中できらきらと輝いていた金色の粉をお嬢さんに振りかける。
「これで、少なくとも不幸にはならない。幸せなんて人それぞれの価値観で決まるもんだから、どうなるかはこのお嬢ちゃんしだいだ」
 たぶん、お嬢さんはいつもと同じように、この小さな家の中で静かで満ちたりた日々を送る。そういうささやかな幸せを願う人だから。
 それでいい。どんな形であってもお嬢さんが幸せなのが一番だもの。
 男は何も言わずにふわりと笑って、そしてそっとお嬢さんに手を伸ばす。
 ――何をするの。
 少しだけ警戒して問いかけると、男は苦笑した。
「悪いことじゃねぇよ。……まぁ、神様のおせっかいってとこだ」
 そして彼はそっとお嬢さんの額に触れる。淡く光ったと思うと、すぐにその光は消えてしまった。その光がお嬢さんにどんな影響を与えたのか、僕には知るすべがない。優しい光だったから、男の言うように悪いことではなかったんだろう。
 サービスいいね。
「……まぁな」
 男は少し照れくさそうに笑って、僕に向かってすっと手を伸ばす。僕はその指先に導かれるように、そっととまった。
「これでいいんだな?」
 うん。……ありがとう、神様。
 僕は小さく呟く。男は――神様は一瞬だけ目を丸くした後に、優しく笑った。
「じゃあ、行くぞ」
 今度こそ僕はしっかりと頷いて、最後にお嬢さんの寝顔を見る。とてもぐっすりと寝ているようだ。今お嬢さんの見ている夢が幸せな夢だといいなと思った。



 その日、マリアは目覚めてすぐに違和感を覚えた。
 いつも真っ暗だった視界が、不思議ととても明るい。
 おそるおそる手を伸ばすと、見えなかったはずのてのひらの輪郭がぼんやりと見えた。先生ですら回復の見込みがないと言ったマリアの視力が、戻っていたのだ。自分の身体に何が起きたのか分からずに、ベットの上で茫然とした。
「……アオ?」
 突然の出来事に徐々に不安が膨れ上がり、いつも一緒にいる青い小鳥の名を呼ぶ。けれど、傍にいるはずの鳥はやってこない。そう、妙に部屋の中が静かだった。いつもならばあの小鳥の鳴き声や羽音が聞こえるはずなのに。部屋の中で寂しげに響いているのは時計の秒針の音だけだ。
 ベットの上で目をこすりながら周囲を見渡していると、ぼんやりとしていた視界は少しずつはっきりとしてくる。ベットからおりて慣れた家の中を歩く。目が見えるという状況に慣れなくていつもはぶつからないはずのテーブルに躓いた。
 家の中を歩き回っていると、ひときわ眩しい光にマリアは目を細めた。その強い光を遮るようにマリアは顔の前に手をかざした。それから目を閉じ、そして深呼吸をしてからもう一度光の先を見た。
 眩しいほどに光を放つのは、窓の向こうのどこまでも広がる青い空だった。
 思わず涙が出そうになるほどに綺麗なその色に、ただマリアは息を呑んだ。初めて見る空は鮮やかで、どこか悲しい。


「やぁ、マリア。珍しいこともあるな。君が気づかないなんて――……マリア?」
 いつものようにマリアの家に訪れた先生が玄関から顔をのぞかせると、マリアは窓際に立ちつくしたまま振り返りもしなかった。
 いつもと違う様子に、先生の顔が曇る。
「マリア、どうかしたのかい?」
 心配そうに歩み寄る先生に、マリアは窓の向こうを見つめたまま呟く。
「……アオがいないの」
 そう言われて、先生も家の中を見回した。しかし青い小鳥の姿はどこにもない。いつもの散歩の時間でもないのに家にいないなんておかしい。それだけあの鳥はマリアにべったりだったのだ。
 嫌な予感が胸をよぎった。
「猫は死期が分かると姿を消すって言うが……まさか」
「その、まさかだと思うわ」
 マリアは涙を浮かべた目で先生を見つめて笑う。その瞳に宿った光を見て先生は目を丸くした。

「ねぇ、先生。青ってこんな優しい色だったのね」

 窓際には、青い小さな羽根が一枚だけ、名残を惜しむように残されていた。


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