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A10  言祝ぎ

 同僚が来たる翌月に上司になる。
 さらに連れを得ることとなった。
 その人は妻の主であり、武官で一の位を戴く礼《らい》真冠《しんかん》さまの娘である。伯慧《はくけい》は彼女と席を同じくしたことがあるはずなのだが、とんと顔が思い出せなかった。
 いつも顔を火照らせ、俯いていたことだけは覚えている。ただ、いと稚い娘御だと伯慧は思った。体つきも小柄で、年齢も伯慧より一回り以上離れている。
 名を琴香《きんか》といった。

 同僚である、犀怜《さいれい》は元は武官である。彼の家である昆《こん》家は近衛を輩出してきた一族であったから、それは当然といえる。彼は十五の歳にその身を国に捧げた。
 犀怜は筋もよく、近衛隊の末端から地位を上げていった。けれど十八歳になった折、突然文官へ転向した。元来、文官も務まる能力も持ち合わせていたようで、ある時誰かが彼を推挙したのだという。
 それ以来同じ部署で働く同僚として、苦楽を共にしてきた。それが今度は突然の出世である。実際を知らず尾ひれがついた噂が出回っている。州候に噛み付いただの、すれ違い様に喧嘩を吹っ掛けただの。面白いが真実は至極地味だ。
 単純に官吏全員にとある意見書を出すよう指示が下り、それが州候の目に留まったのだ。それをもって此度の昇格なのだ。
 それが正式に発表されたのが二ヶ月前。内祝いが一ヶ月前に行われ、その際祝言に参った琴香に、犀怜が求婚をした。これは伯慧も本人から事実として聞いている。しかし全く持って大胆なことをしたことだ。
「仕方ないだろう。今しかないと思ったんだ」
 伯慧が感想を述べると、犀怜は困ったように眉尻を下げた。五つほど自分より若い同僚に、伯慧は微笑む。周囲が期待する分仕事中に表情を崩すことはない。だがその分、伯慧には年相応の顔を見せた。それを伯慧は嬉しく思う。
「琴香はね、本当に可愛いんだ」
 うっとりとした表情で犀怜は琴香を語る。
「まだ足取りも危ういうちから私に懐いてくれてね。私は末っ子だったから、まるで兄になれたようで楽しかった」
 勤務時間中の犀怜は無表情を貫いている。言葉が丁寧な分怜悧な剣のように思える。今の緩んだ顔がまるで別人のようだ。
「だが兄ではないのだよ。そう呼んで慕ってくれているけれど、私は琴香の兄ではない。日々愛らしくなる彼女を女性としてみてしまったのも無理からぬことだ」
 琴香はあまり外で出て来ない。父君である礼真冠が彼女を家の奥深くに隠していると専らの噂である。実際なかなか姿を現さない。親しく付き合いのある犀怜でさえも近頃はなかなか会うことが難しかったらしい。伯慧は自分の婚儀の席で相見えることが出来るかと思っていたが、それは叶わなかった。
「わたしは琴香殿をよく知らないのだが、どういうお方なのだ」
「琴香は……引き合いに出すなら桃の花だな」
「桃、というとあの木になる桃のことか。薄い赤色の花がつく」
 縦に割れた球形の実を、薄い赤色の花を伯慧は思い浮かべた。
「そうだ。正にあの桃の色が彼女だ。それより琴香は紅《こう》殿の主のはず。それなのに伯慧は知らないのか」
 紅は伯慧の妻である。そして琴香の付き人である。
「お互いに仕事の話は家にあまり持ち込まないのだ。それに紅は琴香殿を慕っている。語らせると暫くわたしは口を挟めない」
「ああ、確かに。それはそうだ」
 想像に易いのだろう、犀怜はくくく、と笑った。
 紅に口を開かせるとそれを閉じさせることが大変だ。だがそれ以上に幸せそうに目尻を下げて紅は語るのだ。例えばこのように――。
「ええ、なあに。伯慧ってばあたくしに琴香さまを語らせるの? そうねえ。琴香さまはね、桃のようなお方よ。可愛らしくて、お小さくていらっしゃるわ。あたくしの大事で愛しい主よ。ああ、でも伯慧もちゃんと大事よ。あ、わかってるならいいの。理解してくれて嬉しいわ。そうそう、琴香さまわね、照れ屋でもあらせられるのよ。うふふ、顔を桃色に染めてね。そのお姿がとてもとても愛らしくて、あたくしが男であったなら腕の中へ抱きしめて放してあげないわ」
 一息に言い切った妻の言葉に、伯慧は返す言葉を失くす。だらしなく表情を崩した紅をたしなめる前にその主の溺愛ぶりに何も言えなくなった。
「あたくしは琴香さま付としていられるけれども、人の物になってしまうというのはやはり寂しいものね」
「そんなに可愛らしいお方なのか」
「ええ、とっても。あ、でも貴方は琴香さまに夢中になっては駄目よ」
 少しだけ唇を尖らせて妻が言う。伯慧は首を傾げた。
「何故だ」
「貴方にはあたくしがいるでしょう。いくら琴香さまがどんなに愛くるしくてもあたくしを一番に見て頂戴な。ね、旦那さま」
 はにかむように微笑む妻に伯慧は苦笑を浮かべた。
「もちろん。わかっている」
 それ以前にはっきりと顔を覚えていないのだ。夢中になる以前の問題だ。しかし琴香がどんなに魅力的であっても、伯慧には紅が一番である。自ら望んで紅を連れにした伯慧である。
「でも突然ねえ。犀怜さまの影響?」
「ああ。紅とも犀怜とも親しい方なのに、わたしはあまり存じ上げないからな。気になった」
 近いようで遠い存在。名前は上がるのに皆に顔が知られていない。不思議なものだと伯慧は思う。
「武官長の真冠さまがあまり外に出したがらないのよね。溺愛してらっしゃるから。まあ、あんな娘が居たら骨抜きにされてしまうわよね」
「ふうん。ところで桃色っていうのは何か理由があるのか」
 犀怜も桃と言っていた。
「桃は桃よ。桃色。会えばわかるわ」
 琴香を思い出したのか、紅は幸せそうに微笑んで、伯慧の肩によりかかった。
 桃色というと赤に白を混ぜたあの色である。赤よりも薄く、しかし白より確かな色を持っている。
 縁のない伯慧には琴香に直接見える機会がない。どんな娘だろうかと思うだけだ。御年十六歳ということを考えると、通常であれば仕官なり身を固めるなりと思い始める頃である。けれど琴香は大事に大事に礼家にしまわれている。真冠はともかくそれほど夢中になれる娘なのか伯慧はやはり、不思議に思うのだった。

 機会はないと思っていた。けれど縁とは奇妙なもので、伯慧は琴香と相対する機会を得た。それは犀怜と琴香の内輪の宴である。
 ごく親しい人物だけが招待されたその中に伯慧と紅の夫婦も居たのだった。
「あたくしは元々琴香さまの傍仕えだから招待されなくてもいるのだけど」
 などと紅は言っていたが、その顔は盛大に緩んでいた。この日だけは紅は伯慧の妻として、琴香の前に立つのだ。今まで二人一緒に彼女と面したことはない。伯慧は妻の様子を微笑ましく思いながら、主役の二人の前に歩み寄った。
 金屏風の前に二人が並んで座っている。犀怜は紺藍《こんあい》のゆったりとした衣装に身を包んでいる。琴香は真朱《まそお》の赤く、華やかな装いである。髪に刺さった金の歩揺《ほよう》が揺れている。紅は琴香の装いに満足なのか、密かに何度も頷いていた。
「伯慧、紅殿、よくいらっしゃいました」
 犀怜はにこにこと喜びを隠そうともしない。こちらが呆れてしまうほどのいい笑顔だ。伯慧は苦笑しながら、言祝ぎを告げる。
「此の度は大変喜ばしく存じ上げます。ささやかながら、心よりお祝い申し上げます」
「御婚約おめでとうございます。犀怜さま、あたくしの琴香さまをよもや泣かせることがありませぬよう、よろしくお願い申し上げます」
「……紅」
 意地悪な言い方をする妻を伯慧はたしなめる。しかし、言葉には深い情が込められており、信頼があった。
「勿論ですよ。琴香のこと任せて下さい」
 笑いながら答えて、犀怜は隣の琴香に目をやった。その目はいつにも増してやさしい。だが先刻からまだ琴香は一言も発していない。伯慧はその声がどんなものなのかもまだ知らない。
「琴香さま、先ほどから顔色がすぐれませんわ。緊張していらっしゃるんですね」
 紅が琴香の肩を抱く。
「紅……」
 ずっと俯いていた琴香はそっと顔を上げて、紅の手をとった。衆目があるためか、頬は仄かに染まっている。ちらと伯慧に視線が動いた。
「琴香殿」
「……ひゃっ!」
 琴香が目に見えてびくつく。紅の後ろに隠れて、不安そうにしている。伯慧は笑いかけようとして失敗した。幼子から怖がられることは度々あるが、慣れるものではない。
「琴香、この人は見た目は厳ついですが、穏やかな人です。怖くありませんよ」
 犀怜の言葉に再び、琴香の目が伯慧に注がれる。いかにも恐る恐るといった体だが。
「そうですよ。琴香さま。あたくしの旦那様です。とってもやさしいんですよ」
 そっと見つめられ、今度こそ伯慧は笑ってみせた。琴香が僅かに口許を緩める。
「……うん。やさしそう、かも」
 ほっと息を吐く。それは伯慧だけでなく犀怜と紅も。琴香は少し慣れたようで、紅の背後から出てきた。
 きちんと相対して、やはり伯慧が一番に思ったのは小さいということだった。犀怜と紅が言うように、桃の色が似合いそうな娘である。しかしそれだけで二人から同時に聞くのも不思議であった。
「犀怜」
「あ、はい!」
 和やかな雰囲気になったところで他の招待客を相手にしていた真冠が現れた。犀怜を呼び寄せる。聞き漏れた会話から他の招待者への挨拶に借り出されるようだ。気遣う視線を琴香に向ける犀怜に伯慧は安心させるように頷く。此処には紅も居るのだ。心配はいらないだろう。
 犀怜が名残惜しそうにしながら、席を立った。それから紅が琴香の緊張を解そうと話しかけ、それに彼女も応えていった。
「紅」
 だがしかし、宴席で給仕をしていた者が紅を呼んだ。どうやら給仕の方で人手が足りず、紅にも手伝って欲しいということのようだ。本来なら紅も給仕の中に入っていたのだが、琴香が真冠に願って招待者に混ぜたのだ。けれどやはり手が足りなくなってしまったらしい。だが今、紅がこの場を離れると琴香の傍には伯慧一人になってしまう。
「紅、行って。わたくしは大丈夫。伯慧さまがいらっしゃるから。手伝ってあげて」
「けれど、この人では……」
「紅。行くといい。琴香さまのことはわたしが見ている」
 伯慧と琴香だけではまだぎこちない。それは重々承知していたが、紅を給仕に行かせる。紅も人手が必要ならば自分は行くべきだろうとわかっているのだが、琴香が心配だった。それでも二人に押し出されると渋々と場を離れた。
「でも、何かあったら仰ってくださいませ。馳せ参じます」
「うん」
 妻の過保護ともとれる言葉に苦笑しながら、伯慧はその背を見送った。
 琴香と伯慧二人だけになった其処は、つい先刻の賑わいが嘘のように静かになった。元来伯慧は話すことが得意ではないし、琴香も人見知りだ。親しくなるにはもう少し時間がかかる。
 案の定暫く二人は無言であった。だが居心地が悪いわけではなく、寧ろ心地良かった。他の席から漏れ聞こえるさざめきに身を任せる。ざわざわと人の林の中にいるようだ。伯慧はそっと目を閉じた。誰もが浮き足立っている。会話の端々から喜びの感情が滲みでている。
「あ、の……」
 ほっそりとした声に伯慧は目蓋を押し上げる。
「……伯慧さま」
 振り向くと真赤な顔を俯かせて琴香が伯慧を見ていた。どこか迷うような素振りに言葉の続きを促す。
「なんでしょう」
「あの、兄……犀怜さまには内緒にして欲しいのですが、教えていただきたいのです」
 強張った表情に伯慧は眉を寄せる。何を深刻に悩んでいるのか疑問に思った。
「わたしで答えられることでしたら」
「犀怜さまのことなのですが……」
「犀怜の?」
 犀怜と琴香は幼い頃からの知り合いだ。それなのに自分で答えられることがあるのかと伯慧は首を傾げる。
「はい。……その、わたくしは犀怜さまに求婚され、それを受けました。その事は伯慧さまも御存知かと思います」
 伯慧は頷いた。しかも彼は直接犀怜から聞いている。
「わたくしは犀怜さまを、その、慕っております。けれどあの……犀怜さまは本当のところどうなのか、自信がないのです」
 どんなことを訊かれるのかと思っていた伯慧はその質問に少々呆れてしまった。だが琴香にしてみればそれは重要なことなのだろう。恥ずかしそうに目を泳がせ、頬を染めている。
「ちょっとだけ、……怖いのです」
 真朱の衣装で顔を隠すように恥じいる琴香。伯慧は言葉を選んで口を開く。
「犀怜はわたしに言いましたよ。愛らしい方だ、と。幼き頃は兄と慕ってくれて嬉しかった。そして今はきちんと女性として貴方を見ている、と」
 その時の眩しいばかりの笑顔を見せられたらよかったのだが、伯慧の記憶にしかそれはない。だが伝えてやりたいと思った。琴香を見ていると手を貸してやりたくなる。いじらしく、愛らしい。犀怜と紅が二人して夢中になるのもわかる気がした。
「犀怜が普段貴方にどういう態度で接しているかは存じませんが、わたしの前で貴方を語る時の彼は幸せそうに見えます」
 伯慧はその時の犀怜を思い出して、頬を緩めた。いつもは冷静な犀怜が、興奮した様子で語る姿は貴重だし、何より伯慧はその姿を自分に見せてくれるのが嬉しかった。
「あ、ありがとうございます……」
 そしてその相手が琴香だ。彼女は変わらず恥じ入ったままだが、ほわっと表情をやわらかくする。強張っていた顔は次第に甘さを含んでいく。
 ああ、桃色だと伯慧は思った。
 桃は見た目の柔らかさに反して、皮はざらついている。それは先刻の強張った琴香のようで、一見愛らしいのに警戒心も滲ませている。だがひとたび皮を剥いたなら、淡い色のやわらかい姿を見せるのだ。外見だけでなく、内面にも甘い色がある。それが桃であり、琴香には桃色が相応しいと伯慧は感じた。
 漸く犀怜と紅のいう桃色の意味を理解した。
「琴香殿」
 伯慧は琴香に向き直ると、身形を整え傅いた。頭を垂れた伯慧からは見えないが、おそらく目を丸くして驚いていることだろう。それを想像して口の端を歪ませると、伯慧は祝いの言葉を述べた。
「犀怜は我が友、また紅は我が妻。遠回りの縁なれども、心からお喜び申し上げます。御婚約おめでとう存じます」


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