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A08  歌う青と芽吹く緑

 苔むす大樹の枝に寝そべって、樹公は空を見上げた。絡む枝葉の隙間から覗き見える空は青く、眩かった。
 樹公はあくびを噛み殺し、森林官のおとないを待つ。
 やがてがさがさと木々を分ける足音が響き、樹公の前に二人の人間が現れた。
「遅いぞ」
「すみません」
 柔らかな苦笑を浮かべ、男は頭を下げた。隣にはまだ幼い子の姿がある。
 樹公は枝から跳び下りて、二人の前に立った。
「それが、新しい森林官か?」
「はい。私の、娘です」
「ふぅん」
 人間は男と女でまぐわい、子を成すと聞く。子を成すにはある程度の年齢を重ねる必要があり、また、婚礼の儀が必要だとも。そう教えてくれたのは何代前の森林官だったかはもう覚えていないが、人間とは面倒なものだなと思った事は覚えている。
 子供は、父の腰布をぎゅっと握り、樹公を見上げている。やせっぽちの子供だ。
「じゅこう、さま?」
「そうじゃ。この森を護り人を護り邑を護る、ありがたーい樹公様じゃ」
 腕を組んでふんぞり返る。が、子供は何の反応も示さず、大きな眼でじっと樹公を見上げるばかりだ。
「何じゃ、面白うない」
 今までの森林官は皆、樹公の姿を目に留めるなり、女は頬を染めた。男は眼差しに畏怖を込めた。
 だが、目の前の子供は何の反応も示さない。面白くない。
「……樹公」
 男が躊躇いがちに言葉を投げる。
「その、この子は、目が……」
「見えぬのか?」
「……はい」
「ふむ。それでは、ちと困るのう」
 森林官は、樹公に外の世界を教えるのが役目だ。邑で目にした事、耳にした事、それらを樹公に伝えるのが役割である。
 いつからそのような制度が存在したのか、樹公は知らない。そもそも、樹公はいつ己が樹公としてこの森に生れ落ちたのかも知らない。ぽん、と放り投げられるようにして、樹公は気がつけばこの森に在ったのだ。
 そして訪れた『森林官』を名乗る人間が、樹公が『樹公』であると教えてくれた。その日から、樹公は『樹公』としてこの森に在る。
 森林官たちは語った。邑での人間の暮らし。樹公の役目。何も知らぬ樹公に、知識を植えつけてくれた。
 会った事のある人間は森林官たちだけであるが、彼らは皆優しかった。彼らと過ごす時間は楽しかった。この、胸が騒ぐような心地を『楽しい』というのだと、教えてくれたのもまた代々の森林官だった。
「確か、他の者ではいかんのじゃったな」
 森林官は、その血筋に連なる者しかなれぬのだと聞いた。
「……ごめんなさい、わたし……」
 ぐす、と鼻を鳴らして、子供が涙を零す。樹公はぎょっとして、子供の前にしゃがみ込む。
「な、泣かずとも良い!」
 緑がかった黒髪を梳いてやれば、子供はぱちぱちと瞬いた。その後に、ふうわりとほどけるようにして笑みを浮かべる。
 ほっと、樹公は息を吐いた。
「森林官。ぬしは、今日が最後となるのじゃな」
「……はい」
 代が変われば、先代の森林官はもう樹公の森に訪れない。それが、人間の決めた約定であるらしい。
「そうか。残念じゃ。世話になったのう」
「私の方こそ。名残惜しゅうございます」
「そうじゃな。儂もぞ」
 男の肩口に額を寄せ、目を瞑る。蘇る思い出はどれも優しいものばかりだったが、その思い出が、目の前のこの男によって与えられたものなのか、樹公は判然としなかった。
 それほどに、長い時を樹公は重ねてきた。
「礼を言う」
 体を離す。すう、と間に流れる風が冷たい。
「……では子供よ、今日から頼むぞ」
「は、はいっ」
 ぱっと顔を華やがせて、子供が勢いよく答える。
「あの、でも、わたし……子供、じゃなくて」
「名は聞かぬぞ」
「え?」
「聞いても、すぐにぬしらはいなくなる」
 覚えておれんよ、と続ければ、男は寂しげに微笑んだ。
 子供もまた、口を噤んで俯いた。



 樹公さま、と父譲りの柔らかな声で子供は呼ぶ。いや、もう子供というより、少女、といった方が良いのだろう。出会った頃よりもずっと、背が高くなった。やせっぽちだった体も女らしい線を描くようになってきている。
「このお花はどんな色をしているのですか?」
 少女は野の花を摘み、樹公のもとへと駆け寄ってくる。視力を持たぬ少女だが、彼女はとても器用に歩く。
「そうじゃな、夏の、空に似ておるよ」
「夏の空……」
「真っ青じゃ。鮮やかで、キラキラしておるぞ」
「鮮やかな、青なのですね」
「そうじゃのう」
「どのような色か、知っていたはずなのに……」
 少女は花にそっと唇を寄せ、悲しげに微笑んだ。樹公はその髪を、やや荒っぽく撫でてやる。
「嘆くな。のう、あの鳴いておる鳥はなんという鳥だ」
「……ツグミ、でしょうか」
「ふむ。ぬしは物知りよな」
「そんな事は……」
「ある。儂が言うのじゃ。ぬしは物知りなのじゃ」
 きょとん、と少女は目を丸くする。そして、ふうわりと、笑った。樹公は、花がほころぶように笑う少女の笑顔が好きだった。
「ぬしは、病で見えぬようになったと言っておったかの」
「はい。お会いする少し前に、病で……」
「そうかそうか。つらかったのう」
「……そう、ですね。また、見たいと思います。空の青、花の青。あなたが教えてくれた、美しい色」
 少女はゆっくりと手を伸ばし、樹公の髪に触れた。
「父が教えてくれたあなたの色。深緑の髪、若葉色の目、鶸色の薄ごろも」
 少女は、少女らしく柔らかな白い頬に笑みを浮かべた。
「見せてやろうか?」
「えっ?」
 最初は、彼女に色を教えられる事を新鮮に感じていた樹公だった。今まで、教えてもらってばかりだったのだ。教える、という行為はとても、新鮮だった。
 だが、悲しく思った。過去を懐かしむ彼女を見ていたら、力になりたいと思ったのだ。
「儂はこの森を護り人を護り邑を護る、ありがたい樹公様じゃぞ。ぬしらの力になる事の、何が悪い」
 代々の森林官が樹公に植えてくれた優しさを以て、樹公は言った。彼女にこの世界をもう一度見せたい。心から、そう思った。
 樹公は、己の指先に一つ口づけを落とす。その指で、彼女の瞼に触れた。ゆっくりとなぞる。右。左。
 最後に、両の瞼に軽く唇を触れさせる。
「……どうじゃ?」
 はっと、少女が息を呑む音がした。立ち上がったのだろう、がさりと音がして、微風が立った。
「見えます……、見える、わたし、……っ」
 しゃくりあげる少女を、樹公は慌てて慰めようとする。髪を撫でてやろうと思ったのだが、伸ばした手はなかなか少女の頭を見つけられない。
「樹公さま? もしかして、目が……!」
「そのようじゃな」
「そんな……」
 少女は声を震わした。さまよっていた樹公の手が、ようやく少女の頭を見つける。
 樹公は、あやすように少女の頭を撫でた。
「おそらくは代替わりするなり、……ぬしが果てるなりすれば戻ってこよう。何、儂にとっては短い時じゃ。ぬしが気にやむ事はない。そら、喜べ喜べ」
 手を滑らし、少女の頬に触れる。濡れていた。
「綺麗なお花……。綺麗な、青」
 愛しげに言って、少女は笑う。
「ありがとうございます。本当に、……ありがとうございます……」
 少女は泣きながら笑っている。
 笑っているのならばそれで良いと、樹公はそう思った。



 少女は女となり、妻となり、母となった。
 嫁に行く時は行きたくない行きたくないと駄々をこねていた女だが、子が生まれたのだと告げてきた時の声は、幸せに溢れているようだった。
 あれからまた、時を経た。人の時にしてどれくらいの長さなのかは分からないが、女の声はずいぶんと落ち着いたものとなってきている。
 その、深く落ち着いた声で女は言った。
「西隣の邑が、攻めてきたのです」
 女は嘲るように鼻を鳴らした。
「西の邑は、邦になろうとしているらしいですよ。なのでもっとたくさん、火も、広がります。いえ、もう、きっと手遅れ」
 言葉の終わりは、嗚咽に飲まれた。
「邑の皆は、逃げました。あなたも、どうか、逃げてください。私も逃げます。下の子は、死んでしまいました」
 嗚咽を噛み殺す女の髪に、樹公は触れようとした。撫でようとした。泣き止んでほしかったのだ。
 だが、その手は払われた。
「あなたは、この森を護り人を護り邑を護るありがたい樹公様ではなかったのですか! どうして、どうして護って下さらないのです!」
 女の両の手が肩に食い込む。
「下の子は、焼かれて死にました。火から逃れられなかった! 助けてと言っていたのに! いいえ、私の子だけではありません、たくさんの同胞が死にました。何故、何故護って下さらなかったの!」
 まるで吼えるように、女は叫んだ。肩に食い込む爪が痛い。
「……見たくなかった、こんな世界を目にするくらいなら、見えぬままで良かった!」
 慟哭が刺さる。
 ひとしきり泣いて叫んで、女は樹公から手を離した。震える息を、大きく吐く。
「……今まで、ありがとうございました」
 笑う気配がした。樹公は女の笑顔が好きだった。まるで花がほころぶように笑う、女の笑顔が。
 髪に触れようと思った。泣き止んでほしかった。だが、伸ばされた手が届く前に、女は身を翻した。だんだんと足音が遠ざかる。
 樹公はその場にぺたりと座り込んだ。
 喜んでほしかったのだ。人に植えてもらった優しさで以て、彼女に笑顔を与えたかった。だから、その目に光をと思ったのだ。
 だが女は、見たくなかった、と。
 己は樹公だ。この森を護り人を護り邑を護る、樹公であるはずなのに。
 森も護れない(火のにおいがする)人も護れない(何人が死んだ)邑も護れない(叫ぶ声が聞こえる)。
 風霊が逃げろと言っている。熱風が吹きぬける。頬がちりちりと熱い。燃え盛る炎が赤く渦を成している。
 紅の渦だ。舐めるように手を伸ばし、樹公の森を飲み込んでいく。
 樹公は己の目元に指先を触れた。節高い指が、視界に映った。
 ああ、そうか、女が。
 女は、もう。
 歯を食いしばる。樹公は立ち上がった。駆ける。
 舞う火の粉を手のひらで散らし、ひたすら駆ける。向かう先は森の中央だ。森林官たちと会い、話したあの場所。樹公が好んで居眠りに選んだ、苔むす大樹が生きるあの場所。
「……儂は樹公ぞ」
 そこはまだ火の手が届いていなかった。いっそ不自然な程、穏やかに緑が揺れている。
 幹にしがみつくようにして、大樹に身を預ける。額を押し付け、瞑目する。
「風霊よ。緑成す木々よ。どうか、力を貸してくれ」
 祈る声は震えていた。
「儂は樹公じゃ。この森を護り人を護り邑を護る樹公じゃ。どうか、力を貸してくれぬか」
 樹が、ざわりと葉を揺らした。
 吹き抜ける風が、火を散らしてびょうと啼く。
 啼いて、叫ぶ。



 ぽっかりと広がる空が高い。枯れた大樹の幹に背を預け、樹公は空を見上げる。かつてあった、絡む緑の枝葉は無い。焦げた枝が空を撫でるばかりだ。
 人の時間にして、どれほどの時が流れたのかは知れぬ。邑がどうなったのかも分からない。ただ分かるのは、この森を訪れる者は、もういないだろうという事だ。
 ふいに、足音がした。聞こえるはずのない足音だ。馬鹿げている。
 己を嗤う樹公だったが、足音は確かに聞こえる。だんだんとこちらに近づいてくる。
「あなたが樹公ですか」
 ぱき、と枯れた枝を踏む音がした。
「母に聞いた通りだ。深緑の髪、若葉色の目、鶸色の薄ごろも」
「ぬしは……」
「俺は、次の森林官になるはずだった男ですよ」
 精悍な男だった。だが、微笑む顔には柔らかさが窺えた。
 深く、柔らかな声音で男は問う。
「樹公、ですよね?」
「……わしは、樹公などでは……。護れなかった愚者ぞ。森も、人も、邑も……」
「そんな事はない。あなたはずっと、護っていて下さった。ここにくる途中、たくさんの骨を見ました。逃げてきた、俺の邑の者でしょう。彼らが今まで、西の奴らに捨てられる事もなくこの地で眠れたのは、あなたのおかげです」
「儂の?」
「西の奴らは、檻のようなこの立ち枯れの森に一歩たりとも入れないようで、手を焼いていますよ。同胞の魂の安寧を、あなたは、護っていて下さった」
「そのような事は……」
「ありますよ。俺が言うんだ。あるんです」
 どこかで聞いたような台詞だった。
 自信たっぷりに言う男を見ていたら、それが正解な気がしてくるから不思議なものだ。
「ずっと、西の奴らの奴婢にされていたのですがね。ようやく逃げられた」
 見れば、男の体には、あちらこちらに傷が走っているようだった。
「どうしても、あなたに届けたいものがあったのです」
 これを、と男は粗末な布衣の腰帯の下から、布包みを取り出した。
「母が、あなたに、と」
 中には、枯れた花びらが入っていた。
「最期に言っていました。ひどい事を言ってしまった。ごめんなさい。そして、ありがとう。どうか伝えて、と」
 ようやく伝えられた、と男は満足げに言った。
 枯れた花びらを、手のひらの上に取り出す。枯れて、もう、何の花かは分からない。
「……何の花か知っておるか?」
「いえ。名前は知りません。けれど、青い花でしたよ」
「青い」
「ええ。真っ青な。まるで夏の空のように鮮やかな、青い花です」
 青。
 樹公が女に教えた、色の名前。
 青い花。夏の空のように鮮やかな、真っ青な花。
 樹公が女に教えた、美しいもの。
「いっとう好きな色なのだと。花なのだと。そう、母は言っていました」
「……そうか」
 喜んでくれたか。
 樹公の与えた目で見たその花の色を、好いてくれたか。
 笑顔を、与えられたか。
 笑えた日々も、確かにあったか。
 樹公は手のひらの枯れた花びらに、ふうっと息を吹きかける。花びらは乾いた音を立てて、地面に舞い落ちた。
 樹公としての力は、失われつつあるようだ。以前であれば、花は色を取り戻したのに。己はもう、朽ちるのを待つばかりの存在なのだろう。
 だがそれも良い。護る森は枯れ、人も、邑も、もう無いのだから。
「さて、行くとしましょうか」
「……は?」
「俺は逃げてきた身です。そしてあなたは、どうやらもう力を使い果たしたと見える」
「それは……」
「ならば、もう残された道は逃避行のみでしょう?」
 どこか不敵に笑って、男は樹公の手を取って立たせた。
「俺は若菜。覚えて下さい。あなたは?」
「わ、儂は……」
「あなたを樹公たらしめていたのが代々の森林官ならば、邑も失せ森林官も役を失った今、あなたは人になる。森林官の血に連なる俺が、あなたを人にする。俺があなたを、人として生み直す。この森の外で、あなたは人としてもう一度生きるんだ」
「そのような事ができるのか?」
「俺が言うんだ、できますよ。信じて下さい」
 男――若菜は不遜な調子で笑みを刻んだ。
「ほら、いきましょう」
 共に。
「では樹公様? あなたのお名前は?」
 力強く樹公の手を引き、若菜は歩みだす。
「儂の名……」
「道すがら、考えましょうか。人には名が必要なのですよ。まさか樹公ともあろう方が、ご存知ではない?」
 む、と樹公は頬を膨らませた。そんな樹公を見て、若菜は大きな声で笑う。

 彼らの背後、枯れた大樹に芽吹く小さな芽があった。
 陽を受ける芽吹いたばかりの若葉は、歩みだす彼らを見送るように燦と輝いている。
 空は青。
 抜けるように高い、青空だった。


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