一覧へもどる

A07  色覚研究所奇譚

 ふいに、ゴッホの首に鈴を付けていたお嬢さんがこちらに振り向いた。
「ねぇ、こんな話は聞いたことあるかしら? 女学校のお友達から聞いたの。この街には、何でも願い事を叶えてくれる不思議な人がいるんですって」
 たわいない噂話であろうと、私は適当に相槌を打ちながらお嬢さんの愛らしい横顔に見惚れていた。
「ただし願いを叶えてくれる代わりに、大切な物を差し出さなければならないそうよ」
「まるで西洋の悪魔みたいですね」
 お嬢さんはゴッホの喉を優しく撫でいる。
「どうかしら? 似合ってる?」
 私が頷くとお嬢さんは満面の笑顔を見せる。つられて私も柄にもなく顔をほころばせた。
「もし、さっきの話が本当なら何を願うの? お家の再興? それとも立派な学者になること?」
 そんなことは、決まっている。
 私の願いはただ一つ。


「お嬢さん、私と一緒に逃げてください」


 私とお嬢さんが密やかな逢瀬を重ねるようになったのは、些細なきっかけであった。お嬢さんが女学校の帰り道で拾ってきた子猫を旦那様が捨ててくるように命じたことだった。家長である父親の命令をお嬢さんは頑なに拒んだ。
「こんなに小さな子ですもの。このまま道端にいたら野良犬に食べられてしまうわ。お父様は、そんな恐ろしいことができますの?」
 良家の子女として厳しく躾られたお嬢さんが初めて反抗したことに、旦那様はひどく狼狽してきつく叱った。今まで声を荒げることすらしなかった父親の叱責に、お嬢さんはひどく動揺して激しく泣いて抵抗した。
 その様子を屋敷の女中たちと廊下で立ち聞きしていた私は思わず二人の間に割って入ってしまったのだ。更に自分の食い扶持も稼げぬ書生の分際で、旦那様に嘆願した。私が責任を持って世話をすることを条件にし、お屋敷で飼うことの了解を取り付けたのだ。
「本当にありがとうございました」
 泣きは腫らした兎のような目でも、礼を言うお嬢さんの姿は凛として美しく、すっかり私は魅了されてしまった。光栄なことにお嬢さんも私のことを書生以上の存在として認めてくれたのだった。


 しかし、それは茨の道だった。
 旦那様はお優しい方で人格者だったが商才というものはまったくなく、先代の遺産を食い潰すのも時間の問題だった。旦那様に残されていたのは、家柄と年頃の美しいお嬢さんだけだった。そうなれば生き残る道はただ一つ。お嬢さんを資産家の子息に嫁がせて援助を請うというのが、現実に即した良策だろう。
 そして、お誂え向きな成金の田舎者がお嬢さんを見初めて縁談を申し込んできた。
 田舎者は私の遠縁の者で、たまたま私に会いに来た時にお嬢さんを見初め、若人の特有の直情で縁談を申し込んできたのだ。
 こうなるともう手も足も出ない。私の家は元を辿れば雲上人の家系であったが傍流の支流の先の先であり、父の代には見事に落ちぶれていた。私は父の友人である旦那様の元に身を寄せて、家の再興のために勉学に勤しんでいた。幸いなことに帝大に入り先は立身出世も夢ではないところまできていたが、それを待っている時間がなかった。
「とても良い方でけれど……ルノアールも藤田もご存じはなかったの。ゴッホも変わった名前の猫ですって」
 芸術をこよなく愛し自ら絵筆を執るお嬢さんには、教養のない田舎者は当然受け入れ難い。それでなくとも私という存在がいるためにこの縁談に難色を示していた。
 しかし旦那様はこの好機を逃さなかった。乗り気でない娘を説得する時間を稼ぐために、女学校卒業後に祝言を挙げることとして先方と話をまとめてしまったのだ。
 縁談がまとまってから連日の説得にも首を縦振らない頑なな娘の様子に、旦那様はお嬢さんに恋仲の男がいることを疑いはじめた。 
「言い交わした男でもおるのか?」
「そのような殿方がいるのなら、とっくに駆け落ちしています」
「お前の我が儘はこの家だけではなく、社員の家族までも路頭に迷わすことになるのだぞ」
「解っています。それが私の宿命ですもの」
 もちろんお嬢さんは認めない。もし私の存在が知られれば、お互いの仲を引き裂かれてしまうばかりか、私はこの家を追い出されて、大学にも居られなくなってしまうだろう。守るべき惚れた女に庇護さられなければならないとは何とも情けない。
 才は有るが富を持たざる者とは惨めなものだ。己の身が立つまでは、能がなく財だけの者の横暴な振る舞いを止めるすべもなく屈辱に身を震わして耐え忍ぶしかないのだ。


「ゴッホが逃げてしまったの」
 女学校を卒業まで一ヶ月と迫ったある日、お嬢さんが思い詰めた表情で離れにやって来た。田舎者が屋敷に逗留していたせいで、この数日はお嬢さんと逢えず、私は鬱々とした日々を過ごしていた。
「また一緒に探して……」
 ゴッホはよく屋敷を逃げ出す。その度に私とお嬢さんはゴッホを探しに出かけ、段々と絆を深めていったのだ。 
 いつものように私はゴッホを探しに街に出た。
「あっ、ゴッホ!」
 一瞬姿が見えたかと思うとすぐに消えてしまう。今日はやけにすばしっこい。鈴の音を頼りに無我夢中で追っていくと、私はいつのまに普段は足を踏み入れない街外れにいた。
 夕闇が辺りを覆いはじめてた頃、ようやくゴッホを見つけた。小汚い雑居ビルの階段にゴッホはいた。走って捕まえようとすると、気ままな猫はまた階段を上って逃げる。
「おや、迷い猫ですね。かわいらしい鈴だこと」
 雑居ビルの最上階のドアが音もなく開き、支那服を着た男としては華奢な女としては柔らかさの欠ける美貌の主が現れた。
「貴方の猫ですか?」
 澄んだ硬質な声は男女のどちらとも判然としなかったが、ただ温もりがない造りものめいた姿にはよく似合っていた。
「ここは色覚研究所。わたしが所長です。どうぞ中へ」
 美貌の麗人は私を中に誘う。
 入れると生暖かい空気が私を包み込む。暖房の熱気にしてはねっとりとしていて気味が悪い。
 室内は良く云えば骨董屋、悪く云えばがらくた屋という風情。色とりどりの大量の品物が雑然と放り出してあった。
 手近な目映く光輝いている壷を眺めていると、所長と名乗った麗人はゴッホの喉を撫でながら私に近づいてきた。
「これは「真実の壷」ですね」
「真実の壷?」
「貴方には何色に見えますか?」
「……光り輝いていて、この色は何と言うのでしょうか?」
 麗人は私の問いには答えずに、矢継ぎ早に質問する。
「では、こちらの水入れは?」
「薄い緑」
「そちらの兎の置物は?」
「鈍い金色」
「貴方は実に常識人でいらっしゃる」
 莫迦にされているような気がする。
「ここはどういった機関なんですか?」
 耳慣れない「色覚研究所」というものに、私の好奇心がくすぐられた。
「ごく私的な研究所ですよ。趣味のようなものです」
 金持ちの道楽なのだろう。良いご身分だ。
「貴方に、こうしてお会いできたのも何かのご縁です。わたしの研究を手助けしていただけませんか?」
 訝しげに見つめる私を気にもせず、麗人は淡々と話し続ける。
「難しいことはありません。貴方の中の「色」を一つ提供していただきたいのです」
 麗人の腕の中からゴッホはするりと逃げた。
「どういう意味なのですか?」
「以前、ある少年から「悲しみの色」を提供してもらいました。彼はとても辛い目に遭い、悲しみに暮れていたので喜んで渡してくれました」
「それでどうなったのですか?」
「「悲しい」ことがなくなってしまいました。今まで感じていた「悲しい」事象が彼の中で何の痛みを与えないものになったようです」
「まるでおとぎ話だ……」
 気が違っているのか、それとも担がれているのか。信じろというのが無理な話だ。
「耳にしたことがありませんか? この街にはどんな願い事も叶えてくれる人がいると」
 お嬢さんのたわいもない噂話――
「貴方はどんな代償を払っても叶えたい願いはありませんか?」
 目の前にいる妖しき麗人は人とは思えない。まるで狡猾な悪魔に見える。 
「本当にどんなことでも叶うのか?」
「願いは一つだけ。どんな事でも貴方が望むなら」
 悪魔が囁いている。
「願い事の代わりに「色」とやらを渡せばいいんだな」
「はい。もちろん、あなたの願いが叶った暁に」 
 美しい悪魔は涼しげに微笑んでいる。
 悪魔の老獪な罠に嵌っているようにも思えたが、どんな犠牲を払っても私はお嬢さんと一緒になりたかった。そのためならば、この身すら惜しくはない。
「お嬢さんと一緒になりたい」
「将来を約束された方なのですか?」
「ああ。私が横恋慕するような男に見えるのか? 横恋慕したのは向こうなのだ。金にものを言わせて旦那様を丸め込んで、借金の形にお嬢さんを妻にしようとしてるのだ」
 激情に奔流された私は今まで鬱憤を晴らすがごとく訴えた。
「お嬢さんの隣にいるのは私であるべきなんだ! お嬢さんと一緒になりたい。そのためにはどんな代償を払っても構わない」
 私の話に黙って耳を傾けていた麗人は、棚に飾ってあった丼鼠(どぶねずみ)のような灰色の香炉を手に取った。
「これは「夢色の香炉」。貴方にはどのように見えますか?」
「まるで、丼鼠のような色だな」
 麗人は楽しそうに何度も頷いた。
「趣深い表現です。寝る前に、これで香を焚いてください。お香はこちらのでいいでしょう」
「それだけでいいのか?」
「ええ。素晴らしい夢が見られますよ。そうそう、ゴッホを連れて帰るのを忘れないでくださいね」
 私は促されるままゴッホと香炉を抱えて研究所を後にした。
 

 実に清々しい朝だ。昨夜、半信半疑のまま丼鼠色の香炉で香を焚いた。まるであの麗人のような得体の知れない香りではあったが、不思議な心地良いさにすぐに私は眠りに落ちた。久方ぶりに熟睡したおかげで、気持ち良く目覚められたはずだったのだが――
「ここはどこだ?」
 見慣れた自室よりも広い部屋だった。そもそもわたしの部屋は和室で、ここは洋室だ。
 呆然をしていると耳慣れた声がした。屋敷の女中頭のお滝さんだ。
「お目覚めになられましたか?」
 上等な布団をはね飛ばして起きる。書生ごときにかける言葉使いではない。私が答えられずにいると更にお滝さんは驚くべきことを口にした。
「成田様、朝食の用意はできております。旦那様もお嬢様もお待ちになっております」
 それは忌むべき成金野郎の名前だ。ここは奴の部屋なのだろうか。では奴はどこに行ったのだ。
 お滝さんは私が出てくるのを待っているようだったが、ここで顔を合わせるわけには行かない。立ち去ってくれることを願いながら、私はひたすら身を硬くして布団に丸まっていた。
「成田様、お粥をお持ちしました」
 どうやら眠ってしまったようだ。聞き馴れた可憐な声で目が覚めた。
「お嬢さん!」
「どうなされたのですか? そんな大声を出して」
「目が覚めたらここで寝てて……」
 私は必死に訴えるが、お嬢さんはただ困ったように笑っているだけだ。
「やはりお体が優れないのですね。もう少しお休みになられますか?」
 いつもの様子とは明らかに違う。快活さが陰を潜めた淑やかな立ち居振る舞い。そこには純然たる良家の子女がいた。
「成田様」
 美しいくちびるが忌々しい名を呼ぶ。
「私です、お嬢さん!」
 眉を八の字してお嬢さんは困惑してる。
「悪い夢でもご覧になられたのですか? わたくしは戻りますので、お顔を洗われたらいかがでしょう?」
 お嬢さんが出ていくと私はすぐに客室に併設している浴室に駆け込む。
「!!」
 鏡に映ったのは「私」ではなく「田舎者」が驚吃している姿だった。
 私は声を出さずに吼えた。喜びとも怒りともつかない感情が込み上げてきて自然に涙が零れた。これなら何も障害なくお嬢さんと一緒になれる。だがしかし、それは「私」ではない……。


 しばらくして私はよろよろと身支度をし始めた。これから旦那様と食事に行かなければならない。一介の書生には触れることができない上等な仕立ての良い洋装を身に纏う。田舎者の成金にしては意外にも趣味が良い。最後の仕上げに鏡の前に立つと、お嬢さんの「婚約者」に相応しい上品な青年がそこにいた。
 馴れない高級洋食屋での晩餐は、親子の敬意に満ちた眼差しに気後れしながらで味も何も判らないまま、ただ咀嚼するだけで時間が過ぎてしまった。帰宅して居間で珈琲を飲む間にも旦那様は感謝の言葉を重ねた。
「娘を大切にしてくれる上に援助までしてくれる、実に良い婿殿を迎えたと羨ましがれたよ」
「お父様、また同じことをおっしゃって、成田様も困ってらっしゃるわ」
「君のお父上のお陰で、どうにか事業を継続できたよ。感謝してもしきれない。社員とその家族を守ってくれてありがとう」
 晩餐の葡萄酒が抜けきれないとはいえ、こんなに上機嫌な旦那様を私は見たことがなかった。
「この頃、お父様は誰にでも貴方の自慢ばかりされているんですの。何度も同じ事を話すので、みんな呆れてしまいますの」
 そっとお嬢さんが耳打ちをした。私の前で見せる屈託のない明朗さとは違う艶のある淑やかさに、隣にいるはずのお嬢さんが遠くに離れていくように思えた。
 

 深夜、私は堪えきれなくなって屋敷から逃げた。目指すはあの研究所。この紛い物の世界を終わらせるために。
「愛しのご令嬢の婚約者になったご感想は?」
 すべてを見透かしたように麗人は私を迎い入れた。この姿を見ても「私」だと認識できているようだ。
「これでは「私」ではないではいか!」
 激昂して悪魔に掴みかかった。
「不服ですか? 貴方の希望通り、紛れもなくご令嬢の婚約者になれたはずです。貴方はおっしゃったはずだ。どんな犠牲を払ってでも叶えたいのだと」
 私に支那服の喉元を絞められても、美しい怪物は飄然としている。それどころか冷たい硝子玉のような瞳で私を嗤う。
「もういい。元に戻してくれないか?」
 絞め挙げていた指から力が抜けていく。
「願いは叶えました。貴方からはお約束の「色」をいただきます」
 乱れた襟元を整えながら麗しき化け物は私に告げた。
「それは何という色なんだ?」
 この屈辱的な状況から解放されるなら、それが何であろうとくれてやる。
「貴方からいただくのは「夢」の色です」
 そう言うや否や、華奢な人差し指が私の額に触れる。
 触れられた箇所から、細い煙りがたなびいていく。煙は「丼鼠」のような灰色だった。
「貴方の「夢の色」はやはりこういう色だったんですね……」
 麗人が声が徐々に遠のいていく。やがて「丼鼠」色に視界がすっかり覆われてしまうと、私は意識を失った。


 見慣れた天井を布団から眺めていた。この数日間、私はずっと眠っていたらしい。お滝さんが悪い病かもしれぬと起きた私を、また寝かしつけたのだ。
「お嬢様の祝言のお日にちが正式に決まったそうですよ」
「そうかい。ようやく旦那様も肩の荷が降りるね」
 長い間、待たされていたのだ。成田氏もさぞ喜んでいるだろう。
「……だいぶ顔色も良くなりましたね」
 お滝さんは泣きそうな顔で笑う。
「こんな晴れやかな心持ちになったのは久しぶりだよ」
 私は大きく伸びをすると、布団から勢い良く起きあがった。


一覧へもどる

inserted by FC2 system