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A04  愛に逢いに

「学生を何だと思ってるの?」
 娘の抗議に母は動じない。「学業が本分でしょう?」言いのけて母は続ける。
「あなたは、ただバイトして遊んでいるように見えるけど?」
 辛辣だ。そんなことないと反論しかけたが、実績が伴わないので、どうせ切り返される。言葉は無駄だ。私は黙って降参の諸手を挙げた。

 かくして頼まれものを預かり、電車に揺られている。普段は乗らない私鉄なので、景色が違って落ちつかない。
 しかも頼まれものが、厄介だ。できれば春休み中もバイトして新学期に備えたかったのに、しょぼい国内旅行のくせに2泊とか、ありえない。車買う夢が遠のいた。
「りっちゃん? 懐紙、持ってるかい?」
 カイシって何だ、持ってるわけないだろ。と思うも頼まれものだ、大事に扱わないわけに行かない。
 私は状況を察して「ティッシュなら」と一枚出して祖母に与えた。祖母は機転の効く孫に満足して、顔中にしわを寄せる。
「ありがとね」
 厄介な頼まれものだ。
 家で大人しくしていた祖母が、祖父の十回忌を過ぎた辺りから旅行がしたいと言い出したのには、辟易したものだった。
 あちこちガタは来ていても、基本的には健康だ。施設に入れる理由もなく、かと言って一人旅をさせるには不安がともなう、そんな祖母の日に日に強くなる我が儘を叶える役どころとして、私に白羽の矢が当てられたのだった。
 女4人の家族。妹にもついて来いと言いたかったが、彼女は受験である。祖母をなだめて妹の勉学環境を整えてやる目的もあったりする。私が一家の父親役だ。
 祖母は与えたティッシュで指先を拭きながら、みかんを丁寧に剥いて食べている。彼女は向かいに座る私に、一房みかんを手渡しながら言う。
「あんたも大きうなったねえ。そろそろお嫁に行かんとね」
 興味ないからと私は内心で呟き、苦笑する。歪んだ笑みを、みかんの酸味のせいにした。

 旅行の目的は、子供の頃に住んだ町が見たい、というものだった。
 空襲を受けて疎開し、離れてしまった港町だとかで、電車はどんどんと潮の匂いの中へ進んでいく。
「ああ、ほら、よく泳いだ海が見えてきたよ。あの湾を越えた先に、お祖母ちゃんの住んでた家があったんだよお」
 母には、少しでも具合が悪そうなら帰ってこいと言われている。押しつけたものの、心配はしてくれているらしい。最寄りの病院も教えてもらってあるほどだ。
 まだ言葉と身体がしゃんとしている祖母の、最後の願いと感じたのだろう。
 悔しいことに、私も母と同じ感覚を味わっている。
 電車に揺られているうちに、彼女の見知った風景が増えてきたらしいことを知るだに、祖母がどんどんと生きかえっていくのが分かるのである。
 認めないわけに行かない。故郷へ帰るという儀式が彼女にとって、どれほど重要なのかと。

「もうすぐ着くよ。お祖母ちゃん、降りる準備して」
 ひとつ前の駅から声をかけて、ゆっくり、ゆっくりと立たせる。祖母は人の5倍は、立つのに時間がかかる。きゅうっと「?」の背中をして腰を押さえる彼女を見ていると、なんだか哀れになる。最近お祖母ちゃんの背中を見てなかったな、と気付くのだ。
「ああ、着いたんだねえ。ありがとうねえ」
 笑顔で何度も頭を下げられると、来た甲斐もあるというものだ。
 海岸沿いの道を歩く祖母の足取りは軽くて、今にも走りだしそうである。頼むから転ばないでね、骨折しないでねと祈る程度はバチも当たるまい。
「あっちに中等学校があってね」
 その向こうに高等学校で、でも戦争が始まって軍事施設になっちゃったから進学できなくて……と、祖母は私が聞いてなくても構わないんだろう勢いで、しかもボソボソとしゃべる。気が済むまで、しゃべってくれてたらいい。
 私は歩いていく祖母の背中を気遣いつつ、海辺を眺めた。砂とコンクリートに固められた湾は、昔は海水浴もできたんだとか聞いた気がする。とても泳ぐ気になれない港だけど、祖母の目には輝かしく見えているらしい。
 思い出と愛着が生まれるのは住んだ長さにではなく、その時に何を体験したかによるのかも知れない。
 空襲にへこたれず復活している町並みを、祖母がまぶしく感じるのは当たり前なのだろう。

「この辺りは桜が早いねえ。これじゃ入学式の時には、枯れちゃってるかも知れないね」
 元中等学校だという場所には、小学校の看板が入っていた。横を通っていくと、並木の桜が芽吹いている。夕暮れの田んぼ道には、私たちの他は誰も歩いていない。
 並木は学校の向こうにまで続いていく。向こうに高等学校があるのだと祖母がいう。いう以上は歩いていくつもりなのだろう。とことん、つきあうさ。
 と、思ったのだが。
「お祖母ちゃん?」
 祖母が突然、足を止めてしまったのだ。
 口がわなわなと開いている。
 視線の先を見る。と。
 道の向こうから、誰かが歩いてくる。
 青年だ。
 私と同い年か、年下か。
 ブレザーは制服だろうか。とすれば地元の高校生だ。
「りっちゃん!」
 祖母が彼に背を向けて、私にすがりついてきた。
「どうしたの」
「りっちゃん、りっちゃん、りっちゃん」
「お、お祖母ちゃん?」
「ああ、どうしましょう! まさか、まさか会えるなんて」
 誰に?
「お祖母ちゃん、落ちついてよ」
 地元の子らしき彼とお祖母ちゃんじゃ、接点ないでしょうよ。
 近付いてくる彼も私たちの挙動不審が目についたらしく、見上げると、視線が合ってしまった。とりあえず会釈してみたが、なんともごまかしようがない。
 だしぬけに祖母が行った。
「りっちゃん、白粉を貸しとくれ!」
「お、おしろい?」
「紅もおくれ!」
「べにぃ?」
「こんな、こんな顔じゃ、あの人に会えないよう」
 祖母がいきなり両手で顔を覆って、縮こまってしまったのだ。

「あの」
 さすがに見知らぬ女2人でも、これだけ大騒ぎしてたら無視はできなかったらしい。無視してくれても良かったけど。
「大丈夫ですか?」
「あ……はい。大丈夫です……」多分。
 近くで見たら、なるほど結構いい男である。身長や体格、顔もなかなか。遠目なのにお祖母ちゃん、見る目があるではないか。というか、そういう問題でもないが、祖母は一体どうしたというのか。
 話しかけたそうにしているので「知り合い?」と聞いてみたが、顔を覆ってうつむくばかり。なのに彼が立ち去ろうとすると「あ」と声を上げるものだから、始末が悪い。
「もう! どうしたのよ」
 何がしたいのだか何が言いたいのだか、まったく分からない。苛立って祖母の手を引っぱると、顔が半分あらわになって「ひいい」と祖母が悲鳴を上げた。
「見ないで、見ないで下さい! 私こんなに、ばっちくなっちゃって……」
 どうやら最大級の照れを、この男性に感じているのだとは、分かった……が。
「りっちゃあん、せめて紅おくれ。正次郎さんに合わす顔がないよう」
 今にも泣きだしそうに顔をぐしゃぐしゃにして困る祖母を見ていたら、こっちが恥ずかしくなってきた。べにもくそもないだろう。
「やめてよ、お祖母ちゃん! みっともない。ほら、もう行こう。すみませんでした」
 逃げたい一心で祖母を引っぱるも、すると今度はかたくなに拒絶してきて踏ん張るのだ。今までにない祖母の奇行に、私は引っぱりながら青ざめていた。とうとう祖母が狂った。どうしよう。母に電話しなきゃ。
 いやいやと首を振って立ち止まったままの祖母に、救いの手をさしのべてくれたのは青年だった。
「……え?」
 目をぱちくりさせてしまった。
 彼は、丸い祖母の背にゆっくりと手をかけて、次に祖母の頬に触れ、その次には、道端に落ちた桜の花びらを祖母に差し出したのである。
 すっと、花びらを祖母の唇に当てて。
「綺麗ですよ」
 祖母は、鎮まっていた。

「ありがとう」
 と幸せに微笑んだ祖母の顔は、今までに見たどの彼女よりも「女」だった。化粧なんてカケラもしてない顔だけど、ファンデーションも口紅も乗っているかに見えた。そんなの私は持っていない。
 見知らぬ彼は、一時間後には知っている彼になった。
 家に招待されて、あつかましくも泊めさせてもらえることになったのには、ちゃんとわけがあった。彼の「花びら」口説きにも理由があったのだ。
 一瞬だけ祖母が「正次郎さん」と呼んだ名前が、彼の祖父のお兄さん、つまり大叔父だったのである。
 家に上げてくれた彼は、私たちを家族に紹介してから床の間に向かった。3人揃って仏壇にお参りをして、彼は「ほら」と縁にかかっていた写真を下ろして、見せてくれた。
「戦争で亡くなったって聞いてる」
 モノクロの写真には、彼と同じ顔した青年がバッジのいっぱいついた軍服を着て、への字口で映っている。
 本物の正次郎さんである。
「俺よく似てるらしくて話題にのぼるから、憶えてたんだ」
 言うと彼は写真を掲げて、への字口をしてみせる。なるほど細部は違うものの、面影が似ている。
 祖母は震える指先を額縁に添えて、顔を歪めた。
「逢えました、正次郎さん……!」
 祖母が、こんなに取り乱したり泣き崩れたりする人だとは、今まで知らなかった。

「にしても、キザよね」
「たけくらべか何かに、ああいうシーンがあった気がして」
「いや、ないから」
 正次郎ならぬ翔太くんは、不機嫌そうにスイカの種を縁側へ飛ばす。縁側もスイカにかじりつくのも初体験の私は、それだけで楽しい。
 ぷぷぷっと種を連続発射する私に「変なヤツ」と悪態をついて、彼は「普段はあんなことしねぇよ」と補足する。それはそうだろう。普段あのノリでは、おかしすぎる。
「でも素質充分じゃない? 今だって相当もてそう」
「ねぇよ」
 私は翔太くんが高校生なので、大人のお姉さんを演じている。祖母は疲れて眠ってしまった。それはそうだろう、と思う。今日来たばかりで、この事件だ。
 私の脳裏からは、おしろいだべにだとわめいた祖母の荒れようが放れない。
 祖母の気持ちを察して、適切な優しさを示してくれた翔太くんにも、実は頭が上がらない。
 どうして私は、すぐ分かってあげられなかったのか。理由は分かっている。私が「女」じゃないからだ。顔を彩る白や赤の華やかさを、求めていないからだ。
 どんなに年を取ったって、口紅を塗りたいと思う心がある。
 好きな人の前では綺麗でいたいと思う。
「お祖母ちゃん……」
「ん?」
 私はスイカを見つめたまま呟いた。
「大恋愛だったのかな」
「そう聞いてる」
「知ってるの?」
「身分違いなのに頑張って結婚しようとしてたけど、出兵で叶わなかったって」
 祖母だったのだろうか。
「ずうっと逢いたかったんだろうな。お祖母ちゃんがここに来たいって言いだしたの、お祖父ちゃんの十回忌が過ぎてからだもの。来れる日を心待ちにしてたってことだものね」
「でも、十回忌を過ぎるまで来なかったんだから、それだけ祖父さんを気遣ってた、いい人だってことじゃないか」
「……そりゃまぁ」
 会ったばかりの年下くんに諭されるとは、私はどこまで鈍感なのだ。

 翌日は翔太のお父さんが車を出してくれて、神社参りなどをした。2日目の夜は浜辺に行って、皆で花火をした。祖母は浴衣を貸してもらい、帯で腰が伸びて美人に見えた。比較的大きな家だけど今じゃ普通よなどと笑って、翔太のご家族は皆、私たちに良くしてくれた。
 時代を越えた罪滅ぼしだったのかも知れない。身分違いの恋人を引き裂いた追い目など、この人たちが持つことはないのに。けど何かしたくなるのが人情というものなのだろう。
 私は生憎「うちに女の子がいたら良かったのに」と嘆かれつつ、ワンピースで参加だ。翔太が小声で「それも可愛い」と呟いたが、私は聞かなかったことにした。
 3泊なら良かったのにと思うほど、あっという間の2泊3日が終わった。お礼のお金を包んだが「そんなのいいから」と受けとってもらえなかった。
「じゃあ」
 駅まで送ってくれた翔太に、葉書を出すからと言って住所を教えてもらった。これで後日お礼が送れる。
「また来いよ。もっと南に行けば、海水浴場もあるから」
「本当?」
「綺麗だぜ」
「え」
「海」
 私の聞き間違いを素早く察知して、からかってくる辺りがムカつく。祖母が、ほほと口に手を当てて微笑む。正次郎さんに逢えた祖母の風情は、しっとりと落ち着いている。
 昨夜、祖母に謝った時のことだった。
 私が祖母の化粧をしたがって慌てた時のことを謝罪すると、許してくれながら祖母が言ったのだ。
「正次郎さんが亡くなっていることは知っていたのに、慌ててしまって」と。
「でも私はお祖母ちゃんに、みっともないなんて言うべきじゃなかった」
「仕方がないわ、本当にみっともなかったもの」
 ほがらかに笑う祖母は、美しかった。

「では、またね」
 電車の窓から手を伸ばす祖母の指先に、翔太が触れる。その一瞬は、彼が正次郎さんに見えた。祖母の顔も、少女に見えた。
 車掌さんの笛が鳴る。ガタンと大きな音が響く。電車が動きだす。私も何か言いたいような、でも何も言えない胸のつまりに襲われた。
 言葉が出ないから、私も手を伸ばした。翔太が走る。走って、私の手を取り、指先にキスを落とした。
 すぐ電車が速度を増して、彼はあっという間に小さくなった。ストンと席に座りこむ。けど、指先の熱はいつまでも残っているかに思えて、そっと私は自分の唇に添えてみた。
「りっちゃん」
 呼ばれて我に帰り、手を隠す。祖母はすべてを見通した笑みで私を見つめる。
「連れてきてくれて、ありがとうねえ」
 私こそだよ、お祖母ちゃん。素直に言いたかったのに、言葉が出なかった。祖母が続ける。
「お祖父さんが亡くなって、これで私も後は静かに逝くだけだと思っていたけれど……」
 窓から私へと目線を移して、少女の笑みを見せる。
「十年後に来ようって決めていたの。町だけで充分だったのに、お家にまでお邪魔できて本当に驚いたわ。正次郎さんに、たくさん話せた。私は幸せでしたよって」
「お祖母ちゃん」
「そりゃあ悲しかったけど、お祖父さんと出会えたし、子供に恵まれたし、りっちゃんと旅行もできて、また正次郎さんに逢えただなんて、私はなんて果報者かと思うよ。しかも、りっちゃんの色っぽい顔も拝めたことですしね」
 辞世の句にも似た告白を神妙に聞いていたら、最後にからかわれて「もう!」と声を荒げてしまった。心を読まれたのかとまで驚くではないか。
 だって、帰ったら桜色の口紅を買うつもりでいるのだから。


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