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A03  光り輝く風景

「たいてい白黒だっていうじゃないか」
 終点間際の地下鉄内、線路を移るポイントの揺れが収まったところで、隣に立つ会社の先輩が口を開いた。四つ年上の須藤さんの言葉は現実的で、俺は苦笑を返すことくらいしかできなかった。
「そりゃ、色付きの夢を見る奴もいるわけだし、篠原も見てみたいって気持ちは分かるけど。俺は現実もそれほど鮮やかには感じないからなぁ」
 ちょっと待て。色付きの夢が見たいって話から、どうしてそんなに深刻っぽい話になった? 今度は苦笑どころじゃなく、思い切り気が抜けて、溜息が出そうになる。
「そんな、まさか……」
「篠原には鮮やかなのか? 若いなぁ」
 にやにやした顔を向けられ、俺はなんとか誤魔化そうと笑った。
 でも確かに、鮮やかとは言い切れない気持ちが、胸にわだかまっている。
 普通の中学高校を卒業して、普通の大学で四年を過ごし、苦労して手に入れた職に就いてから、三年半ほどが過ぎた。毎日目に入ってくる風景は昨日とおおよそ変化がなく、たまに季節が変わったことに気付く、といった具合だ。
 まぁ、地下鉄に乗っている間は風景が見えないせいもある、と考えておけば、鮮やかに感じられなくても当たり前と思えるから、そういうことにしておこう。逃げじゃない。これは逃げじゃないんだからな。
「おい、目を開けて寝るな」
 須藤さんに肩をぶつけられ、地下鉄が止まっていることに気付いた。終点なのだから、誰もが降りていく。取り残されなくてよかったと思いながらホームに出た視界の隅、髪を控えめな茶色に染めた女の子が、まだ座席に残っているのが見えた。
「じゃ、明日」
 その声に視線を移し、お疲れでした、と頭を下げて背中を向ける。須藤さんは南側、俺は北側に向かってホームを歩いて地上へ出るのが、お互い家が近くて都合がいいのだ。
 ここは終点行き止まり。そう、これから足を踏み出す地上には、天然色の世界が待っている。いつもより期待を込めてエスカレーターを二つ三つと乗り継ぎ、俺は外気の中へと入った。
「あ、れ?」
 目の前にあるのは、いつものように夜の幹線道路だった。街灯に映し出される建物が彩度なく立ち並び、街路樹が弱々しい影を落としている。その間を、無機質な車のヘッドライトとケツの赤いライトが、さも元気ですと言わんばかりに行き交っている。嘘をつくな嘘を。生きてもいないくせに。
 一瞬で負けが決まった。これで鮮やかだなんて、言える方が間違っている。はい御免なさい、俺が間違ってました。須藤さんの言うとおりでした。
 それでも、この通勤路が朝になったら鮮やかなんじゃないかという期待を捨てられないまま、俺は家路を急いだ。


 夢を見ることに対して意識し続けていると、夢を見ている最中に「これは夢だ」と分かるようになると聞いていた。その日の夢は、まさにそれだった。
 いつもの白黒な風景、しかも地下鉄から降りる時の、今日をもう一度なぞっているような夢だ。本当にたわいもない夢になってしまいそうだと思う。
 須藤さんに肩をぶつけられて戸口へ向かい、ホームに足を踏み出す。そこまでは寸分違わず今日の出来事だった。だが、その後が徹底的に違っていた。
 地下鉄に残っている女の子の髪だけが、つややかで控えめな茶色に見えるのだ。いや、地下鉄で見た女の子の髪がこうだったから、それがそのままだっただけなのかもしれない。でも。
 夢だよね? 夢なんだよね? 
 だけど色が付いているじゃないか。しかも鮮やかに。たまに見かける黒髪の可愛い娘より、その彼女が浮かび上がって見えるほどに。
 その女の子に駅員が近づいた。眠ってしまったのだろうか。降りない乗客がいたら駅員が声を掛けて降ろす、終着駅ならではのいつもの光景だ。彼女は慌てて立ち上がり、恥ずかしそうに駅員にお辞儀をした。
 俺はその様子を、いつの間にか向き直って見つめていた。顔を伏せたまま急いで降りてきた女の子は、俺にぶつかる一歩手前で止まった。鮮やかな髪色が目にまぶしい。
「す、すみません」
「ごめんなさいっ」
 女の子と声が重なった。そして俺のテンションは急上昇していく。だってこのシチュエーションは、まるで食パンを咥えて曲がり角でぶつかるのと同じで、恋の始まりのパターンそのものじゃないか。
 しかもこれは夢だ。都合のいいことに須藤さんもいなくなっている。当然女の子も都合よく可愛いに違いない。超可愛いに決まっている。なんてお得な夢なんだろう。夢万歳、万々歳!
 そしてその時は来た。彼女は、道を空けようと身体を引いた俺を見上げてきたのだ。顔に掛かっていた髪がふわっと左右に分かれる。そこからのぞいた顔は。
「ば!? ばぁぁ!?」
 自分の声で飛び起きた。全身が汗でぐっしょりと濡れ、息が上がっている。驚愕したままの顔の硬直を解くのに、たっぷり十分は掛かった。
 髪はつややかで美しかった。声も可愛らしかった。で、なんでババアだ? 顔までリアルな色付きとは、夢に面白がられているとしか思えない。そういえば白髪染めか何かの宣伝で、若々しい髪へ、とか聞いた気がするが、あれは本当なのか? いや、夢だ、夢だったんだから何でもありなんだ。
 最上級の悪夢だった。初めて見ることができた色付きの夢に、なんてことを。俺の夢のくせに俺に逆らうとはいい度胸だ。ババアの顔には色など付いてない方がいいっての。
 ふと時計が目に入った。その針は、いつもの出勤時間の二時間前を差している。頭も身体も、すっかり目覚めてしまっているので、これから二度寝は危険すぎる。
 まずはシャワーでも浴びて、悪夢の色を奇麗さっぱり洗い流してやる。そして、食パンをトーストして目玉焼きを作って、挽き立ての豆でコーヒーも淹れるんだ。コーン缶だって開けるし、レタスだって付けちゃうんだからね。
 ワンルームのちゃちなアパートだけど、二時間もあればそれなりに充実した朝を過ごせる。その上で家を少し早く出られるだろうから、朝の風景を楽しみながら出勤してやるんだ。これだけ準備万端なら、街路樹くらいは鮮やかな緑を見せてくれるだろう。そりゃそうだ、そうに違いない。


 なんというか、既に地下鉄駅に着いているが、街路樹が鮮やかだなんて、ちっとも思えなかった。いつもと変わらない、奇麗といえば奇麗なのかもしれない緑だったけれども。
 地下鉄にしたら二本分くらい早い時間だけど、人並みもいつもと変わらなくて、いつもの速度で流されるように歩いてしまったせいだろう。むしろ食パンを咥えてぎりぎりに家を出る方が、お得だったりするのかもしれない。地下鉄を降りてからも、ちょっとした公園を通り抜けるのだが、同じ轍を踏みそうな気がする。
 胸ポケットからカードを出して、改札機にタッチした。ピッという音を聞きながら、人一人分の空間を通り抜ける。
 須藤さんは四つ上だっけ。もしかしたら俺も、自分から鮮やかに見えないなんて言ってしまうくらい彩度のない世界に馴染んでしまうのだろうか。
 世界は一つしかないのに、誰にも同じには見えていない。俺だって子供の頃は、周りの何もかもが輝いて見えていた。街路樹も、道ばたの草も、砂場の砂でさえも。雑草に小さな花が咲いていたら、それはもう宝石のように愛おしかった。
 それを無くしてしまったのは、歳だから、なんて簡単な理由ではない。いや、なさそうだ。ないと思いたい。だって、これから先、何十年生きていかなくちゃいけないんだ。ジジイになったら、白黒の世界にドップリ浸かっていなくてはならないなんて嫌すぎる。
 あ。だから観光旅行なんてするようになるんだろうか? もしかしたらと期待を込めて、奇麗だと言われる場所に行って眺めてみるとか?
 ちょっと待て。だからそんなの嫌だって。子供の頃のキラキラまでは必要ないけど、俺は世界がそれなりに鮮やかに見える目を手に入れたい。
 溜息をつきかけて、ついたら負けだと思い勢いよく顔を上げた。ホームに滑り込んできた空の車両に乗り込む。始発だから満員にはならないが、人の波が車内を占領していく。
 その中に昨晩の髪色が見えた。洗い流したはずの色が、鮮やかに蘇ってくる。俺は思い切り目をそらした。髪でよかった、こっちを向いていなくてよかった。朝からダブルでダメージを受けるところだった。
 でも待てよ? あれは夢でこれは現実で。もしかしたらこっちが超可愛いのかもしれない、と思った時には、どこかに座ったのか頭頂部すら見えなかった。でもあれは夢だったんだし、可愛かろうが関係ないか。


 俺の最後の砦、公園に向かおうと、なるべく早く地下鉄から降り、改札口へと向かった。階段を駆け上がりつつ、胸ポケットをからカードを探り出、せない?
「ない!?」
 そこにあるはずのカードがない。もしかして他のポケットかと思い、全部のポケットを探ってみた。やばい、これはやばすぎる。定期代三ヶ月分をチャージしたばかりだ。
「あれ、おはよう」
 声を掛けてきたのは須藤さんだ。朝いつも会わなかったのは、二本早い地下鉄に乗っていたからなのか、などと思いつつ、おはようございます、とお辞儀をする。
「どうした?」
「いやあの、カードがどっかにいっちゃって」
 俺はもう一度、ありとあらゆるポケットに手を突っ込んだ。それでもカードの感触はどこにもない。考えたくないけど、どこかで落としたのだろうか。カードは名前入りだ、届けてくれたら、戻ってくるかもしれない。でももしこのまま誰かに、ちょろまかされてしまったら。
「うわぁ! 俺の定期代三ヶ月分が!」
「落ち着けよ」
「そんなこと言ったって、これで新作ゲームが何本買えると思ってるんですか!」
 須藤さんは眉を寄せた。まずいことを口走ったかも。
「三本くらい? 特典の量によっては二本か、場合によっては一本買えないってことも」
 それを聞いて、全身の力が抜けた。もしかしたら須藤さんもゲーマーだったのか?
「とりあえず、駅事務所に行ってみよう」
 一緒の地下鉄の乗客は、ほぼ改札の外へ出て行き、既に人はまばらになっている。俺は溜息をつきつつ、はい、と返事をした。
「篠原、しっかりしろ」
 須藤さんは、俺の背中を軽く叩いた。
「シノハラさん、ですか? あの、これ」
 その声に向き直ると、あの控えめな茶髪が目に飛び込んできた。思わず目を見張る。
「このカード、シノハラカズヤさんというお名前が」
 側に来て、俺のカードを差し出したその顔は、たまに見かけていた可愛い娘と同じだった。ていうか、茶髪の主はこの娘だったのか。
「髪、染めたんだ?」
 須藤さんがブッと吹き出した音が聞こえ、女の子の顔が見る見る赤くなっていく。それでようやく俺が何を言ったかに思い至った。穴があったら入りたい。
「あっ! ご、ごめん! いやっ、前から黒髪が可愛いなって見てたんだけど、この色も似合うなって思っ」
「おい」
 須藤さんが俺の肩に手を置いた。魔法に掛かったように身体も口も思考も固まる。ただ、俺が入る穴を掘り下げたい。どこまでも掘り下げたい。
「言うことが違うだろう?」
 須藤さんの言葉に素直に、はいっ、と返事が出た。それはそれで恥ずかしかったけど、俺は我に返ることができた。
「それ、俺のカードです! 拾ってくれて、ありがとうございます!」
 そして俺は、卒業証書を受け取るように深々と頭を下げながら、彼女からカードをたまわった。
「つきましては、何かお礼をさせてください。どうか名前と携帯番号を」
 須藤さんの目は冷ややかだが、彼女は苦笑してくれた。凄く困っているようだけど。
「お礼だなんて、そんな……」
「でもこれ、俺にとっては生死に関わる問題だったんです。たいしたことはできませんけど、今度ケーキとかパフェとかおごらせてください」
 俺は、もう一度頭を下げた。そこからそっと彼女の顔をうかがう。もう一押し?
「紅茶も付けちゃいますっ」
 その言葉を聞いて、彼女は仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「藤宮、といいます」


 そんなこんなで新作ゲームの発売ラッシュも無事終わり、本日めでたく、藤宮が友達から恋人になってくれた。
 もう力の限り精一杯押しまくった。だって彼女越しに見る景色は、子供の頃に負けないくらい、きらびやかで鮮やかだったんだ。
 俺がこんな凄いフィルターを見つけられたんだから、須藤さんや他の誰もが発見することができるに違いない。
 そして、誰にとっても光り輝く風景になればいいと思うんだ。俺が幸せだからそう思うのかもしれないけど。でも、激しく強烈に、猛烈に思うんだ。


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