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A02  碧の空

 オパールみたいな不思議な輝きをもった青緑色の空に、少しだけ茶色がかった色あいの紅の薔薇の生け垣。迷路のような王宮の庭園。東屋は他の建物と同様にヨーロッパ風の建築様式でできている。柱に絡みつく竜の意匠だけが妙に東洋風だけれど、この国では一般的なその組み合わせにももう慣れた。
 さっきまでそこにいた王と王妃とその従者たちが振りまいていた賑やかさが遠ざかり、庭には静けさが戻りつつあった。
 恭しく跪いて王と王妃を見送っていたエデンが、ゆっくりと立ちあがる。シーナには背中を向けているけれど、彼の視線が未だ王妃の背中を追っていることは見なくてもわかる。亜麻色の髪の、おとなしくてやさしい彼の主君の妻。エデンにとっては忠誠を誓う相手で、シーナにとっても大切な親友。でも、エデンが王妃に対して抱いている感情がそれ以上のものであることを、シーナは知っている。
(馬鹿だなあ)
 エデンの青みがかった黒髪にできたエンジェルリングを見つめながら、シーナはしみじみとそう思う。
 思った言葉は全て、そのまま自分に跳ね返ってくる。馬鹿って思う方が馬鹿なのだ。でも思うことはとめられない。
(馬鹿だなあ……)
「エデン」
 溜息をつく代わりに呼びかける。
「次の約束、時間迫ってる」
 黒いローブの裾を翻して振り向いたエデンは、いつも通りの仏頂面だった。エデンは平均身長の高いこの国では小柄な方だが、シーナよりは頭一つ分高い。体格だって普段から鍛えている騎士たちと並べれば見劣りするが、それでも見おろされると威圧感があるし、精悍な顔立ちの鋭さと相俟って、野生の豹か何かににらまれているような気分にさせられる。食べられる、というよりは、噛み殺されそうな感じ。でも、それにももう慣れた。
 この鉄面皮め、もっと愛想よくしなさい、と内心で罵りながらも、若干不満そうに細められたスカイブルーの目の様子だけで彼が何を考えているかはだいたいわかる。見合いなんて本当はすっぽかしたいのに、言うな。ってところか。
「じゃ、わたしは部屋に戻ってるから。がんばって行ってらっしゃい」
 ひらひらと手を振りながらエデンに背中を向ける。背後から何とも形容しがたい怒気が漂ってくるけれど、無視。こちらに非がないとわかっている以上、無害だ。

 城内に用意された自分の部屋へ戻る。途中、廊下の窓から空を見あげた。
 この世界の空はシーナがもといた世界より少し緑がかっている。この世界にはだいぶ馴染んできたし、翡翠を思わせる透明度の高いブルーグリーンはとても綺麗だけれど、この色に慣れることだけはできない。太陽の光も、すこしだけ弱めに感じる。そのせいかこの世の何もかもが、ちょっとずつ色褪せて見える。
 そしてそんな些細なことが、シーナがもとの世界に帰りたい一番の理由だ。
 家族や友だちに会いたいとか、片思いの相手がいたのになとか、他にもたくさん理由はある。けれどそれはこっちに飛ばされて七年も経って友人も家族もこちらの世界にできてしまった今、秤にかけるだけで苦しくなるようなことだ。
 七年経った。二十五歳になってしまった。今更向こうの世界に帰ってもどうやって生きていけばいいかわからない。同級生はきっともう就職したり結婚したりしているだろう。向こうの世界の椎名柚流は高校も卒業していないのに、これからその輪の中に入っていけるかなんて考えれば不安しか湧いてこない。
 一方こちらの世界でのシーナは、物珍しさだけが売りの『国王夫妻のお気に入り』から、王妃の命の恩人かつ国家の救世主に昇格し、本当の父親みたいに慕える人に養子にしてもらって、若くして内務卿補佐という要職に就いているエデンの、さらに補佐という割といい仕事もゲットしている。生活に不満はない。科学技術や医療レベルに多少不満はあるにしても、向こうの家族にだけ無事でいることを伝えられれば、そのままこっちに永住してしまった方が幸せな境遇かもしれない。
 それでもシーナは、帰りたい。
 家族や友人の記憶がだんだんとセピア色にぼやけた懐かしい思い出に変わって、こちらの世界での記憶こそが今の自分につながるしっかりとした道筋になったとしても。青空に映える桜の花や、夏空に盛りあがる入道雲や、透き通った秋の空や、つめたく冷えた冬の空をもう一度眺めたいと、思う。緑がかった空は気味が悪い。色褪せて見える世界は気持ちを落ちこませる。これはもう、理性の問題でも、感情の問題でもない。遺伝子レベルにすりこまれた本能の叫びだと思う。ふと窓の向こうに空が見えた瞬間、庭園に咲く花に目をとめた瞬間。違う、と。帰りたい、と。思うのだ。いつも。

 あてがわれた一室で、ちゃぶ台の前に座って緑茶を入れる。程なく扉がノックされて、入り口で書類を片手に持ったまま不器用に靴を脱いだエデンが、畳に似せたカーペットが敷き詰められた部屋の中へ入ってくる。
 ヨーロッパ風の城の中で一種異様な存在感を放つ和風のこの部屋は、シーナの世界の風俗に興味を持った国王夫妻やエデンに日本文化を説明するうちにいろいろ集まってきてこうなってしまった、というものだ。もともと洋間のマンションに住んでいたシーナ自身には特にこだわりはないし、こちらの世界の品物で代用しているせいであちこちおかしいのだが、周囲が面白がってくれるのでもうこのままでいいやと思っている。
 エデンもこの部屋はくつろげるとやたら気に入ってくれているみたいだし。
「おかえり。どうだった?」
 城下の市場で適当に見繕ってきた湯飲み茶碗に似たコップをエデンの方に押し出しながら尋ねる。エデンはその辺に落ちていた座布団を引っ張ってきて片膝を立てて座りこみ、眉間にしわを寄せて茶碗を覗きこんだ。
「断ってきた。やはり茶柱は立ってないな」
 茶柱の話は何やら相手の気持ちを信じられなくてぐだぐだしていた王妃の背中を押すために、シーナが「茶柱が立っているから何も問題はない」と勢いで言ってしまったのがもとなのだが、エデンはその話をすっかり信じこんでいるらしい。
 普段はお堅い性格の有能な官吏なのに、そういうところちょっと馬鹿でかわいい。
「今度の子は性格よさそうだったのに。もったいない」
 うそ。馬鹿って思う方が馬鹿なんだ。言いながら思う。
「そうだ。俺にはもったいない。彼女にはもっと相応しい人間がいるはずだ」
「またそんな、自虐的なこと言って」
 でもお茶をすするエデンの表情は穏やかだ。
「条件もお互い合わなかった。仕方がない。お前こそ、どうするんだ」
 この世界での結婚を考えるなら年齢的にとっくに危険水域だということは、シーナも自覚している。
「でも、わたしは、帰っちゃうかもしれないし……」
 口ごもりながらちらっと見あげると、こちらを心配そうに見つめていたエデンと目が合った。思わずじっと見つめ返す。
「何だ?」
 空色のエデンの瞳が困惑したように瞬く。それまでの話題を忘れて、ただ純粋に綺麗だと思う。
「空の色。ちょっとなつかしくて」
 話を続けるか迷うような一瞬の沈黙。
 エデンは、シーナの思う空の色が、自分の瞳の色と同じだということを知っている。
「……それで。どうするんだ?」
 結局気を取り直して話を続けることにしたエデンに、シーナは小さく笑う。
「あまり考えてない。わたしが帰っちゃうこと、許せる人限定になるから」
「候補は何人かいるんだろ?」
「釣書の一番上にエデンがいたから、笑っちゃって残り見てない」
「お前……」
 咎めるようなエデンの視線をごまかし笑いで受け流す。エデンは溜息をつき、茶をひと口含んでから持ってきた書類を床に広げた。
「結婚する気がないなら二年くらいつきあってもらおうか」
「二年って。長いよ。何するの?」
「視察」
 シーナは眉間に皺を寄せてエデンが広げた書類を覗きこむ。
「辺境各地を回りながら、防衛強化、地方行政の調整、必要に応じて公共工事の推進を行う。予定は二年だが、場合によってはもっと長引く」
 一番上の書類はこの国の地図だ。視察予定の都市に印がつけられている。エデンは二枚目の書類を引っ張り出して横に広げながら説明を続ける。
「お前に頼みたいのはいつも通り俺の補佐、それと公共事業に関する助言、国家の救世主としてのプロパガンダへの協力だ」
「最後のはあんまりやりたくない」
「着飾って立っていればいい。演説自体は地位があって話の上手い人間に担当させる」
 三枚目の書類がさらに広げられる。床に資料を際限なく広げられる、というのもエデンが和風部屋を気に入ってる理由のひとつだ。
「同行予定者のリストだ。この辺の文官なら、適任だろ。そうだな……望遠鏡の使用法と心肺蘇生法の実地訓練は直接講義を頼みたいところだが」
「それ、もう今はエデンの方が詳しくなってると思う」
「千里を見通し死者を蘇らせる国家の救世主から直接教えを受ける方が、兵の士気もあがる」
「その二つ名、きらいなんだけど……」
 ぼやくシーナを適当にあしらって、エデンは視察の日程説明に入る。そのままお茶の時間は打ち合わせの時間へと流れていく。

 なんだかんだで本格的な打ち合わせになってしまって、ぐったりとちゃぶ台に突っ伏しながらシーナはエデンを見あげた。
「エデンは、いいの? 二年もここ離れて」
「必要なら」
「王妃様、見守れなくなるよ?」
 冷静そのものだったエデンの表情がわずかに曇る。
「陛下がいる。俺はいない方がいい。あの方を、忘れられそうにない」
「忘れるよ」
 口に出した言葉は全て、そのまま自分に跳ね返ってくる。
「忘れる。七年も経てば。絶対に忘れないと思ってても、思い出になる」
 ましてそれは、とても濃密な七年間だった。向こうの世界でのふつうの生活を、はるか遠くへ押し流してしまうくらい。
 もう思い出になってくれないものは、あの青空だけになってしまった。
「そう、か」
「そう」
 エデンがふっと、やわらかく笑む。
「だったらなおのこと、離れていた方がいい。その方が、忘れられそうだろ」
「そうだ、ね」
 なんとなく見ていられなくなって目をそらす。
「シーナ」
 そらした視線の先に、小さな箱が差し出される。
「これ、渡そうと思ってた」
 シーナは瞬き、姿勢を正して箱を受け取る。エデンから贈り物なんて初めて、でもないが、滅多にあることでもない。怖々開けてみると、ベルベットの台座の上に小型のルーペのようなものが載っていた。竜の絡みついた銀細工の円形の枠に、薄青いレンズ。
「何、これ。虫眼鏡?」
 それにしてはガラスが平らだ。取り出して片眼を閉じて覗きこんでも、世界が薄青く見えるだけで、ガラスの向こうの映像は歪まない。
「色眼鏡だ。それを通して見れば、空も青く見える。本物のように、とは、いかないだろうが」
 薄青く染まったエデンが言う。
「なるほど」
 レンズを覗きこむために閉じていた左目を開き、そっと箱の中に戻す。
「ありがとう。後で試してみる」
「ああ。長居して悪かった。出発は三ヶ月後だが、準備は進めておいてくれ」
「わかった。じゃあね」
 資料をまとめて立ちあがるエデンに笑いかける。かすかに、そうとわかる程度に微笑したエデンが、そのまま部屋を出て行く。

 エデンが出て行った後、ベランダに出てレンズを目の前にかざした。少し暗いけれど、見慣れた色みの空。でも、暗い。ガラスを通してさらに弱められた太陽の光はあまりにもやさしすぎる。
(馬鹿だなあ)
 嬉しいのに、悲しい。ないものはやっぱりない。エデンの気持ちは嬉しい。他でもないエデンの気持ちだからなおさら。
 なおさら、悲しい。
 空はシーナの世界と同じ色にはならない。なつかしいふるさと。不満だらけの、灰色の受験生だった七年前のわたし。
(馬鹿だなあ)
 あんな色鮮やかな世界で『灰色の』とか。どんだけぜいたくなのよ。
 薄青いガラスを通して見あげる空の中で、雲の輪郭がぼやけていく。
 本当は、諦めたくない。もとの世界に戻って、青空を見あげること。なつかしい家族に再会すること。
 でももとの世界に戻る方法は、きっとこれからも見つからない。手を尽くして探しても、ヒントすらどこにもない。関係がありそうな伝説や伝承の類さえも、ない。何も。
(本当に、馬鹿だ……)
 ガラスを持った手をおろす。一面に青緑色の空が広がる。CGみたいな、輝くブルーグリーン。
 いつか向こうの世界の青空が思い出に変わって、この空こそが本当の空なのだと思える日が来るのだろうか。
 目を閉じた。真っ暗なまぶたの奥に思い浮かべるのは、いつかの夏休みに田舎の畔道から見あげた、抜けるように青い空と入道雲。
 いつだって鮮やかに思い描けるはずのそれは、いつの間にか本物よりも少しだけ、暗く、緑がかってきているような気がした。


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