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A01  弟

「佐藤君、佐藤君。今度の日曜日空いてますか?」
 振り返れば、ふわりとした栗色の髪を二つにくくった小柄な女性。少女めいた、甘ったるい印象を受けるが、これでも佐藤より年上だし、部内でもしっかりもので通っている。
 佐藤はしばし考えた後にうなづいた。特にその日に重要な予定はない。
 美緒は顔をほころばせ、両腕を胸の前で組み、夢見る表情で言う。
「じゃ、デートしましょう」
 やはりその話か、と佐藤はため息をつく。美緒は可愛い。並んで歩いていて、年上に見られた事はない。甘えっ子系な部分はあるが、末っ子だし、兄がアレなのだから仕方がないと思う。
「でも、」
 佐藤は首を傾げる。
 先週のデートの別れ際、美緒は次のバイト代がでるまでデートができないと、今生の別れのような顔で嘆いていたはずなのに……。
「お金はあるんですか?」
「臨時収入をゲットしました」
 嬉しそうな表情。
「これ、どうぞ」
 ポケットから可愛らしいピンク色の封筒を取り出した。いつもは愛想のない封筒なのに珍しい。だが、中身は樋口一葉の肖像が書かれたお札が一枚――バイト代が入っているはずだ。
 臨時収入源とやらはたぶん、あの妹に馬鹿甘い兄――洋司先輩だろう。世界一可愛い妹に悪い虫をつけたくないなんて言ってる癖に、どうして妹にほいほい金を渡すのだろうか。
 佐藤と美緒の兄、洋司は友人というか、知り合いだ。佐藤の年の離れた兄――浩一と洋司が仲の良い先輩後輩、という縁で。
 美緒は佐藤の兄である浩一に憧れている。一目ぼれだったらしい。だが、浩一の前だと緊張しすぎて何もできない。そこで、佐藤が浩一の代わりとして美緒に雇われている。
 佐藤は雇われている身なので洋司から悪い虫だと思われていないが、本物の恋人になれば、ネチネチとした嫌がらせを受けるだろう。洋司はやるといったら、努力を惜しまない人だ。
 とはいうものの、浩一にはすでに恋人がおり、美緒が告白したところで失恋する事は目にみえている。いくら練習したところで、意味はない。けれど、妹に甘い兄はそれをわかっている癖に応援するのだから始末に悪い。
 佐藤は美緒とのデート後、一日の出来事を洋司に話すのだから、密偵のような存在として貴重がられている。
 ちなみに、美緒から受け取ったバイト代は、いつも洋司に返している。デートの費用は全部美緒持ちだし、美緒のデート代の発生源はたいてい洋司だから。
 しばし考え込んでいた佐藤の顔を美緒は不安げに見つめている。
「ダメ、ですか?」
「いえ、別に。時間と待ち合わせ場所はいつものところですか?」
「はい、お願いします」
 佐藤は封筒を開けもせず、素早くポケットに突っ込んだ。中身は確認するまでもない。

 いつもの時刻、いつもの場所。佐藤が到着した時、美緒はすでにそこにいた。ピンクの花柄カーデガン、白いレースのワンピース。赤いバッグと赤いサンダルには大きめのリボン。少女趣味だが、それが似合っている。
「遅れてすいません」
 佐藤が軽く頭を下げる。前回より十分早く来たが、また遅刻だ。
「いいえ、私も今来たところです」
 言う割に、美緒が持っているLサイズのカップジュースは空だ。いつも、何時からここで待っているのだろう、自分は練習相手だというのに。それを考えると、佐藤はなぜか、少し苦しい。
「そのカーデガン、こないだ買ってたやつですね」
「あ、覚えててくれてました?」
 ふわりと回る。スカートの裾がひらりと舞う。
 そのワンピースもいつかのデートで選んでいたやつだ。数点の中から佐藤が選ばされた服ではあるが、はたしてそれが浩一の趣味かどうかはわからない。無駄な買い物をさせているようで、気が引ける。
「今日のデートプラン、聞いてもらえますか?」
 美緒は語る。昨日、洋司の前で佐藤が計画していたそのままを。佐藤と洋司が知り合いであること、美緒にはまだバレていないらしい。
 考えてみれば、一回目のデートは散々だった。方向音痴な美緒が一人で計画し、非常に無理なプランに仕上がっていた。案の定、一日じゃ回りきれず、金銭的にも無理がありすぎたのでほとんどのプランを中止した。すると、かなり長く時間が余ってしまい、河川敷や公園をぐるぐる歩いてまわってデートは終わった。
 二回目からは洋司が計画したプランを美緒は使っている。そのほうが佐藤にとってもありがたい。
「……どうですか?」
「それで良いです」
 まずは映画館。そして、昼食。ウィンドウショッピングを楽しんで、お茶して、散歩して、お別れ。完璧な計画だ。
 映画は佐藤が持っていた映画鑑賞ペアチケットを使うことにした。美緒には貰ったと言ったものの、本当は佐藤が購入したものだ。全てを美緒に奢ってもらうわけにもいかない。
 公開し始めて二週間目の作品。客入りはほどほどで、少し早めについた佐藤達は良い席を取ることができた。
 上映開始までしばらくある。佐藤は隣に座る美緒が体を縮こまらせているのに気づいた。
「もしかして先輩、ホラーって苦手でしたか?」
「え? いえ、あの。だ、大丈夫です」
 そうは言うが顔色が悪い。夏だからと、安易にホラーを選んだのだのは失敗だったらしい。
「他の映画にしましょうか?」
「いいえ、えっと、その。これを見ます」
 スクリーンを指差す。まだ何も映し出されていない、ただの白い幕を。佐藤はそれ以上の追求はせず、上映が始まるのを待つ。場内の明かりが消える。闇の中、上映が始まる。
 エンドロールが流れ始めた。深いため息をつき、佐藤は立ち上がる。期待していた作品だったが、後半はなんだか微妙だった。見終わって疲れている。前評判は良かっただけに、よけい後味が悪い。
 歩き出そうとしたが、美緒に立ち上がる気配はない。薄暗い中、顔を覗き込んで見れば、涙ぐんでいる。
「怖かったですか?」
「いえ、すっごい良い映画でしたね。ホラーで感動するなんて思いもしませんでした」
 見終わって感動する――そんなものはホラーじゃないと思うが、美緒が喜んでいるようなので、佐藤は良しとする。
「ランチ食べに行きましょう」
 映画館から少し離れたエリアにある、洒落たレストランへ入る。お昼から少しずれているので、すぐに席に案内された。
 美緒の財布に優しいよう、佐藤は一番安いランチを頼む。美緒はそこそこの値段のものを注文していた。同じものにすればよかったと思うが、おごられる身としては頼みにくい。
 ランチが運ばれてくるまでの間が苦痛だ。顔を見合わせ、思わず微笑む。何か言おうと口を開きかけ、同じタイミングで声を出し、互いに譲り合う。話が進まない。
「先輩からどうぞ」
「いえ、佐藤君から」
「俺、別にたいした話じゃないですから」
 水に口つける。さっきの映画にのことを話そうかと思っていただけだ。佐藤がそれ以上話しださないのを感じ、美緒は口を開いた。
「別に改まって言うことじゃないんですけれど。佐藤君、今日はありがとうございます」
「いえ」
 佐藤は答え、氷を噛み砕く。練習デートはこれで何回目になるだろう。いい加減、美緒は浩一にデートを申し込んでも良さそうなのに、練習は終わらない。
「来てくれて本当に嬉しいです」
 緊張しているのか、真っ赤な顔をして微笑む。佐藤の目から見て、兄の浩一は美緒がここまで一生懸命にならなきゃいけないほどの男だとは思えない。美緒ががんばり過ぎて、空回りしているんじゃないかと思う。
「先輩、もう十分じゃないですか?」
「え?」
 美緒は不自然に固まったが、佐藤は気づかない。
「こういうことにコツなんてものはないと思いますし、パターンもやりつくしたと思うんですけど」
 語っているうち、佐藤はなんとなく嫌な気分になる。美緒に頼まれ、人助けだと思ってやり始めたことなのに、どうして突き放そうとするかのような言い方をしてしまうのだろう。
 佐藤はコップの中の氷を睨みつける。美緒は何も言わない。沈黙を続ける美緒を不信に思い、目を上げる。美緒は目を大きく見開き、佐藤を見つめている。
「先輩?」
「私、迷惑でしたか?」
「いえ、別に」
 コップを一度テーブルに置き、手持ち無沙汰でまた持ち直す。店内を見回るウエイトレスから氷水を注がれ、コップにはまた、氷と水がいっぱいになる。レモンの香りがするそれを一口、流し込む。
 美緒が他の練習相手を見つけだせば、佐藤は洋司からいびられることになるだろう。それは避けたい。
 美緒は何も喋らない。コップを両手で持ったまま、うつむいている。居心地悪く、佐藤は続きの言葉を探す。
 美緒の練習デートの相手役をすることにしたのは、ただの気まぐれだった。ずるずるとその練習相手をしているのは、洋司にも頼まれたから。でも、それは言えない。佐藤と洋司が知り合いである事は伝えない方が良いと思う。デートプランを作っているのが実は佐藤だなんて知れば、美緒は怒るかもしれない。
 何度も練習デートに付き合う必要なんてなかった。佐藤が美緒に付き合っているのはただ――
「俺、暇ですから」
 美緒が誘う日に用事がないから。本当にそれだけ。なのに、なぜかその答えが間違っているような気がしてきた。
 美緒は涙がこぼれそうになり、頭を下げた。泣いたらダメだ。せっかくきてくれた佐藤に悪い。
「ごめんなさい」
 自分は馬鹿だと美緒は思った。練習相手を頼んだのは自分の癖に、都合の良いことを考えている。佐藤は優しい。ただ、それだけの事なのに、彼の優しさに甘え、勘違いしてしまった。
 思い切り明るく、美緒は顔を上げた。
「佐藤君、この後どこ行きましょうか? 行きたい場所ありますか?」
「別に。あの、先輩が好きそうな店が近くにありますよ」
 こうのあたりの店は一通り調べてある。洋司のアドバイスもあり、自然に見つけたように装えるよう、ルートも組み立ててある。
「私より佐藤君ですよ。休日に、わざわざ私につき合わせちゃって悪いですから」
「俺は別に」
「別に、はダメです。行きたい場所、ないですか? ないんなら、女の子しか入れないようなお店、のぞいちゃいますよ?」
 悪戯めいた表情。美緒の変貌に佐藤は戸惑い顔で見つめる。
「先輩、無理しなくても」
「無理してません」
「俺との会話でパターンを模索しても意味ないと思うんですけど」
「模索?」
 美緒は尋ね返す。会話に基本形とか応用系なんてものはないはずだ。
「俺は、兄とは違うんです」
「はい」
「だから、俺といくら話をしても、兄との会話の練習にはならないんじゃないかと」
 口にした途端、佐藤は腹が立ってきた。誰に対しての怒りなのかわからない。目の前にいる無邪気な美緒か、恋人がいるくせにモテている兄か、妹に甘い洋司か、それとも美緒の誘いを断れない自分自身に対してなのか。
 どうして自分は兄の身代わりなんてやっているのだろう。せっかくの日曜日なのに、ボランティアする必要なんてどこにもない。用事ができたと、食後に帰ってしまおうか、と考えてみるが、そんなことができないってこともわかっている。
「どうして佐藤君と話をすると、浩一さんとの練習ってことになるんですか?」
 美緒は不思議な顔で尋ねる。佐藤は佐藤だし、浩一は浩一だ。佐藤といくら話をしたところで、浩一と話したことにならない。
 佐藤にデートの練習相手を頼んだのは、兄弟なのでちょっとしたところが似ているから。憧れの浩一と一日一緒にいるのは嬉しくも疲れるが、佐藤とならば程よい距離で楽しく過ごせるから。
「もしかして」
 嫌な予感がしながら、美緒は佐藤の瞳をまっすぐ見つめる。
「手紙、読んでくれてないんですか?」
「手紙?」
「ピンク色の」
 美緒は指先で封筒の大きさを宙に描く。佐藤は受け取った場面を思い出したものの、中を確かめはしなかった。いつもと同じ、お札だと思い、昨日、そのまま洋司に手渡した。
 佐藤は目を泳がせながら、答える。
「あれ、いつものお金じゃ」
「いつもは白い、銀行の封筒ですよ」
「いや、そうだったけど」
 佐藤は顔を青ざめさせた。これはまずい事態になっている。何が書いてあるのかわからないが、洋司に渡す前に目を通しておけばよかった。
「あの、先輩。中には何を――」
 料理が運ばれてきた。一旦会話を中断する。メニューの写真通りに、綺麗に盛り付けられている。
 美緒は目を輝かせ料理を見つめる。佐藤は手紙の内容が気になってそれどころではない。何と切り出そうかと悩んでいると、美緒が口を開く。
「兄が、あなたのこと良い奴だって言ってました」
「洋司さんが?」
「やはり、知り合いなんですね」
 フォークを手にとり、美緒はこんがり焼けたグリルチキンに突き刺す。ナイフを使って一口大に切る。
「私、思ってたんです。兄が適当に考えたはずのデートプラン、妙に完璧だなって」
 肉を噛み砕き、飲み込み、二切れ目にフォークを突き立てる。じわりと肉汁が溢れる。
 佐藤はサラダに手を伸ばす。
「なんていったら良いのか、タイミングが良すぎるんです。さりげないものの、私が気になっているところに毎回、偶然行けるなんて不自然ですよ。まるで前回の反省点を次回にいかしているような感じがします」
 佐藤は何も言い返せない。その通りだからだ。最初は洋司が組んでいたデートプランだが、最近は佐藤がルート作成している事が多い。洋司が組んだプランだと、子供向け過ぎて途中で退屈してしまう。
 佐藤は思い切り頭を下げる。
「すいません」
「どうして謝るんですか?」
 美緒は食べる手を休め、佐藤を見つめる。目元とか、雰囲気とかちょっとしたところは浩一に似ている。でも、浩一のように爽やかに微笑んだりしないし、冗談も言わない。浩一とは違う男の人だ。
「お礼を言わなきゃいけないのは私の方なのに。私のわがままに今まで付き合ってくださってありがとうございます」
「いえ」
 表情は変わらないのに、なぜか、佐藤は寂しそうな雰囲気を漂わせる。それは美緒の思い込みからくる勘違いかもしれない。でも、これ以上自分のわがままで迷惑をかけるわけにはいかない。美緒は思い切ることにした。
「バイト代ださなくても、またデートしてもらえますか?」
 佐藤は、顔を上げる。
「それって――」
 感情が滲み出してくるかのような、満面の笑み。佐藤は浩一と違っていつも無愛想で、何を考えているのかいまいちわからない。でも、優しくて、細かな気配りができる人だ。よく気をつけてみていればわかる。よく気をつけていないと、気づかない。
 美緒は頬を赤らめ、食事を再開させる。美味しいはずなのに、味はよくわからなかった。


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